日本、異次元の凋落
戦後日本、いよいよ異次元の凋落に突入か。この期に及んで「空気」「人気」に耽溺する日本人。もうカタストロフィ(悲劇的な破局、大変災)しかないのか。
実は死んでいた
実は死んでいたというオチの映画がある。人口に膾炙したところでは、たとえば『シックスセンス(The Sixth Sense)』。実は死んでいた――この死への気付き、第六感(The Sixth Sense)をもたぬものでも感じうることがある。
日本は一度も植民地になったことがない――公知のようにいわれている嘘だ。植民地の定義には「本国にとって原料供給地・商品市場・資本輸出地をなし、政治上も主権を有しない」とある。完全植民地か準植民地かの議論はゆるすだろうが、日本は「植民地」である。
「先の大戦で、そうか、実は死んでいたのか」と覚ったのはいつだったろう。その気付きは若気の血気を血虚へと相転移させた。
爾来、この国に敷かれた道は「下り坂」と私の目には映る。上り下りが逆に見えるような坂を「ミステリー坂」とよぶらしい。アイドルグループの何某が、日本の未来は世界がうらやむ
と尻を振って派手に歌ったとて、そこは下り坂。私はミステリー坂を彷徨ってきた。だまされぬよう、シックスセンス(The Sixth Sense)をはたらかせながら。
私は下り坂に生を享け、おそらく、下り坂に死す「ダウンヒラー」。「ダウンヒラー」とは下り区間を得意とする競走選手のことだ。実は死んでいたというオチからはじまるダウンヒラーの下りざまが、すなわち戦後日本人の生きざまとなる。
ゴースト
空気をなにより重んじる日本人だから、空気の問題であるカーボンニュートラル★1に熱をあげる、のではない。実は死んでいるゴースト(外形を保ったまま内容物を失ったもの)だから、恒温動物から変温動物に変質、結果、外気を自らの熱とするのである。
常に自らの空虚さに無意識的に苛まれるゴースト特有のミーハー、軽信と自己慰安が仮の内容物として彼らに錯覚の重み(存在感)をあたえる。が、それはまやかし物である。
空気をよすがとするものの性質として、「軽さ」との相性がいい。軽躁に馴染み、事あるごとにお茶を濁す。何かのインタビューで、「大切にしてきたものを踏み躙られた」と語っているにもかかわらず、自らの怒気が空気を乱してはいけないとばかりに、その顔は諂笑。踏み躙られた、けれど諂笑っていられるようなら、大切にしてきたというその思いは「軽い」といわざるをえない。
自らに実体的内容がないということは、むろん、軸となる基準もない。ゆえに基準がなければ選択のしようがない状況では、もっとも即席の基準、保身が容易な基準として「人気」を当てにする。右顧左眄し、周囲の「人気」を確認することが、ゴーストにとって最良の行動原理となる。おのれの感情すら「人気」未確認の状態では未定に処する器用な連中である。
このようなゴーストからなる社会では、どのような政治体制であろうと本質的には人気主義となるが、より悪手となるのは民主主義においてだろう。
メディアにおける「人気」しか選択の基準をもたないような浅薄な人間が一票を行使するのは、質が悪いといわざるをえない。別言すれば「一番人気!」というPOP(Point of Purchase)につられて商品を選ぶような人間に、まともな批判能力は期待できない。糞にでも「売れてます!」というPOPを付ければ中身を精査もせず味噌だと信じて飲み下すであろう魯鈍な集団に期待するところはなにもない。
「自由と民主主義」――ブラック企業の求人コピー「アットホームな職場です」と同次元にまで堕ちたこの惹句、もはや死文である。
その疲れの淵源は、おそらく昨日今日の残業ではないだろう。事は思っているほど単純ではない(文化的知性と鬱)。
★1 カーボンニュートラル――温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させ、排出量を実質ゼロに抑えるという概念。
無い物ねだり
日本は対外純資産世界一の黒字国にもかかわらず、人口の6人に1人、約2000万人が貧困ライン以下の生活を余儀なくされているという。この事実は構造の歪さをあらわすものだ。
貧困は深刻で、少子化その他さまざまな現今の社会問題の原因になっているのはわかる。では、スローガンにもなった「日本を取り戻す」とは、「あのバブル景気をふたたび」という、カネ回りその一事のことなのか。
日本がバブル景気にもどったら――衣食足りてあらわれるのは相変わらずの利権の貪婪と金融ゲームの過熱、乱痴気騒ぎと性の紊乱の末のできちゃった婚程度だろう。GDPや出生率、数量の次元ではたしかに、グラフは上向くかもしれない。しかし、それはゴーストたる大衆の内容物が一時的に豊満になっただけであり、やがてまた元の木阿弥、繰り返す。
無い物ねだりのループから超脱しなければならない。実は死んでいた死人のバイタルサイン(脈拍・呼吸・体温等)、つまり数量の次元のみの蘇生では、同じ死を繰り返すだけである。性懲りもなく事物の上面の起伏を撫でて一喜一憂しつづける虚儀に、肚から絶望しなければならない。空虚を埋め合わせるバラストとして消化器と生殖器に過剰な重みをおくような生き方は、言われているほどの価値も面白みもないようだという「観照の時」に触れなければならない。
精神的な素養なしに、構造の歪を正すことなどできないだろう。なぜなら構造が瓦解せず、耐久性を与えているのは、ゴーストどもの精神的なイナーシャ(慣性、惰性力、inertia)なのだから。
さまざまな想念の多層をつらぬく中軸として、文化的合理性、知的恒常性というものが据えおかれなければならないだろう(知性の骨格/死せる知性の道程)。
荒療治だが、この国にその「時」をもたらしてくれるのは、カタストロフィ(悲劇的な破局、大変災、catastrophe)かもしれない。
ノーブレーキ、アンコントロール
カタストロフィまでは無謀、狂態のようなノーブレーキ、アンコントロールな下り坂がつづくだろう。世は無策以下の奸策が跋扈し、不健康きわまりないドドメ色に染汚されていく。軋む数量の次元で数と量をもたぬものは貧困以下の頽廃を経験することになるかもしれない。
そんな絶望の下り坂、異次元の凋落を走り抜けるに必要な構えは何なのか。自身が浮かぬ顔したファイナンシャルプランナーにいわれるまま、NISAだのiDeCoだのに熱をあげていてどうにかなる問題なのか。無能な上司や政治屋が、魯鈍な有象無象の大衆との空気の付き合いで踏みつづけるそのアクセルが、自身や同乗者をどこに向かわせているのか。
取り返しのつかない下り坂をノーブレーキ、アンコントロールでいく日本だが、ミステリー坂ゆえ、その勾配の酷さに気付かぬものが依然、大勢を占めている。
待ち受けるのは、オーバースピードで曲がれないであろう、ヘアピンカーブ。
この下り、最後は精神的技巧がものを言うだろう。