ジャーナリズムの価値
「日本は自立した国防を」、「腐敗したメディアの現状」、「迫る最悪のシナリオ」、「A国ついにバブル崩壊か」――。枚挙にいとまがないのでこれぐらいにしておくが、 このようなセンテンスが今回の拙論のきっかけである。いずれも手垢のついた見出しであり、検索すれば数年前にも、十数年前にもみられる、ジャーナリズムの常況だ。「何も変わらないジャーナリズム」の淵源をさぐる。
ジャーナリズムとは
はじめに、「ジャーナリズム」の正確な定義を辞書で確認しておく。
新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどで時事的な問題の報道・解説・批評などを行う活動。また、その事業・組織。
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『広辞苑 第六版』岩波書店、2008年
なるほど、定義において「報道・解説・批評などを行う活動」とある。つまり、その影響や結果についてまで、ジャーナリズムは使命を帯びるものではないということだ。天気予報と本質的には同じということになる。そうか、それで合点がいった。活動の核心にはなんら関係のない、キャスターの「容姿」であるとか「うけのよさ」にジャーナリズムが力を入れるわけが。まさに昨今の天気予報と同じである。
――しかし、事はそう単純ではなさそうだ。
ジャーナリズムがショータイムとなった理由――
失われた社交の言語空間
私たちが存する言語空間はひとつの位相ではない。以下は西部邁の言葉(西部邁「社交について」、『虚無の構造』中公文庫、2013年)にインスパイアされた考えだ。
言語空間には大きく「家庭の言語空間」「職場の言語空間」「社交の言語空間」の3つがあると仮定する。
「家庭の言語空間」では「帰りに牛乳買ってきて」とか「明日は早いからもう休むよ」といった言語が交わされる。家庭の言語はほぼ「家庭の言語空間」に集約する。
「職場の言語空間」は「来週のプレゼンのパワポ今日中に頼むよ」とか「○○さんなら15時にもどる」といった内容だ。「専門的言語空間」と言い換えることもできる。家庭の言語同様、いわば閉じたルーチン言語である。
これらに属さない言語空間が「社交の言語空間」である。広く共通しうる課題、話題をあつかうことで人と言語を総合する役割をはたす。しかし、共通の課題も規範も散逸した価値相対主義の現在、社交の言語は居場所を失った。
ジャーナリズムが論題を俎上に載せ、世人が社交(社会の交際)の場でそれを展開する。そうした活動の場(言語空間)は失われて久しい。それゆえ道化の皮を被る、つまり「ショータイム化」を余儀なくされたのだ。
ショータイム・ジャーナリズムの紊乱
ショータイムと化したジャーナリズムを「ショータイム・ジャーナリズム」とよぼう。そこはショータイム(観客を楽しませる時間)であるから、キャスターも演者もそれに相応しいものでなければならない。エステで磨きあげた美顔をこれでもかと大写しにしつつ、どこかの国のテロの惨状を読み上げる。人気エンターテイナーが世紀を超えたアポリア(解決できない難問)の総論を語る。
「何も変えないジャーナリズム」という常況の原因のひとつをつくりだしたのは、最大媒質である世人である。彼らがある種の失語症として、言語空間の大きな位相のひとつをごっそり失ったからである。ジャーナリズムの高尚な使命のひとつは、輿論の展開の種子として、論題を世人に与えることだった。しかし、世人はもはや展開のための言語空間も作法も亡失したにひとしい。
時事はいつの世も似たようなものだが、ジャーナリズムの価値は時事そのものの変化ではない。社交の言論空間の有無と質が、ジャーナリズムの価値を決める。
「日本は自立した国防を」、「腐敗したメディアの現状」、「迫る最悪のシナリオ」、「A国ついにバブル崩壊か」――。そんなことはもうどうでもよい、それが社交の言語を失った世人の本音だ。ショータイムで受けが良いのは、観客を大笑させるコメディーや色気もの、あるいはトレンドの発信と相場がきまっている。
家庭と職場の言語空間で日常は事足りる。しかし、不確実性の強風にあおられ、日常から恒常性が失われるカオスの時代を語る必要があるとき、第3の言語空間が必要だろう。ちなみにSNSはその空間足りえぬ貧相な言葉であふれている。