衰滅前夜

衰滅前夜
なぜ日本は衰退するのか

なぜ日本は衰退するのか――この問いに切り込むか、不問にするかによってこの先の日本の運命が大きく変わるという段階にはもはやないだろう。しかし総括の作業によって終章の解釈が変わるということはあるかもしれない。参院選にむけた選挙カーの喧しい2022年6月下旬、詮なきこととは知りつつ「衰滅前夜」の横議をしてみよう。

空虚なる平和

あるイベントに参加した時のことだ。居合わせた人と会話が生じ、聞けばイタリア在住だという。次いで話柄は日本の良さに転じ、「治安の良さ」だとその日本人は言った。日本人が異口同音にする常套句である。――なんといっても日本は治安が良い――じつに空虚な言葉だ。

治安のよさ、もとい「平和」とはなにか。多くの日本人は「戦争がない状態」という。箱の中に「戦争」さえ入っていなければ、空っぽでも「平和」だという。なんと空虚な「平和の中身」だろう。

「平和」を評するのに、西部邁『福沢諭吉 その武士道と愛国心 』の適切な表現を拝借しよう。「文明」についてだが、此の際「平和」と換言しても差支えない。

諭吉にとって「文明」の名に値せぬ社会とはどんなものか。私なりにまとめてみると、第一に衣食住の安楽はあるが自由に振る舞うための余裕がない社会、第二に暮らしの余裕があり、高尚な説を唱えるものもあるが、自由が旧制度によって妨げられている社会、第三に自由は実現されているが、暴力による支配という自由までもが許されている社会、第四に自由も同権も実現されているが、全体の公利も自国の何たるかも人間交際の味も知られていないような社会の四種である。
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西部邁『福沢諭吉 その武士道と愛国心 』文藝春秋、1999年

私はこれに同感する。しかし、多くの日本人のいう「平和」はクオリティ(資格qualiを備えていることity)が低いのである。「戦争」がなく、衣食住が足りていれば満額の「平和」だというのだ。まさにニーチェのいった野暮にして善良なる若造、家畜の群れの緑の牧場の幸福である。そして、その「平和の牧場」で年間およそ2万人もが自ら命を絶つ。

この列島全体に蠢く矛盾に、何程か、人は気づきはじめている。その蠢くものを取り出し、解剖してみよう。蠢くもの蠕虫(ぜんちゅう)をずるずると引きずり出すと、その体長は近代分あるようだ。それはただ生き延びようとした末のかたちであり、「空虚な平和」のかたちそのものである。

この蠕虫を腑分けすれば、日本はなぜこんなありさまになってしまったのかという問いにたいする答えの一片に触れることができるような気がする。知ったところで詮ない「衰滅前夜」の横議である。

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戦後の「平和」の定義に則せば「平和の光景」である。

戦後レジームではなく近代レジーム

「戦後レジーム★1」という言葉があるが、敷衍して「近代レジーム」といおう。「戦後レジーム」とは、「近代レジーム」にたいする日本の民族的・文化的特性が極度に圧抑された戦後の体制・制度のことである。つまり「近代レジーム」による日本の民族的・文化的特性へのとどめの段階のことであり、「近代レジーム」のうちである。

令和の今も「近代レジーム」にある。「近代」の定義はさまざまなれど、ここでは日本の鎖国の終了以降としよう。つまり1854年、ペリー率いる合衆国東インド艦隊の圧力に屈し、下田と函館を開港した時点を「近代のはじまり」と仮定する。以来160年以上の時を経ても「近代レジーム」は微動だにしていない。むしろ建策600年以上の時を経て、いよいよ堅確に完成されようとしている。

現在が「近代レジーム」の只中にあるからこそ、もっとも学ぶべきは「近代」である。たとえば、不惑(40歳)の人間の今此処のあり方を考えるのに、3歳の頃の事実より30歳以降の事実を省みるべきだろう。同様に――「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と暗記する必要がないとはいわないが――「近代」について知ることは、それ以前の過去について知ることより重要である。

★1 戦後レジーム――ここでは第二次世界大戦後に確立された世界秩序の体制・制度の事を指す。

支配欲動の構造とイナーシャ

近代レジームとは、いわば支配欲動の構造である。そのアーキタイプ★2としてアングロ・サクソン系の植民地支配という礎業は礎石となってはいるが、もはや構造の全体ではないだろう。今や支配欲動の全体とは特定可能な国家や民族、イデオロギーではなく、構造全体からくるイナーシャそのものではないか。

イナーシャの激湍にあって、逆らうのみならず、流れの「幅」のなかでの主体の発揮はできたはずだ。1ミリも身をよじるあそびがなかったわけではないはずである。間隙をつくことなく、機知を究めることなく、イナーシャへの惰性、怠慢に耽溺した戦後。それは「平和ボケ」、「茹でガエル」と揶揄されても仕方ない、日本人自身の失誤、失錯だろう。こんなありさまの原因の一端は日本人自身にもあることをまず自覚せねばなるまい。

戦後77年が経ち、日本が対するべきは支配欲動の構造全体からのイナーシャだ。特定可能な国家や民族、イデオロギーに最終局面はない。イナーシャへの抗言、抗抵は国を越えて共有できる価値になるはずである。なぜなら今やイナーシャは人間が希望するものではなく、人間を欺罔するものであるからだ。

★2 アーキタイプ(archetype)――元はユングが提唱した分析心理学における概念。民族や共同体が同様の経験を反復するうちにいたる特有の集団的無意識の具体化。