グローバルスタンダード
1857年頃の日本の様子をオランダの船医ポンペ・ファン・メールデルフォールトはこう描写している。
「我々が姿を見せると、どこでも人々の歓迎を受けた。人々は家の中や仕事場から、我々を見ようと出てきて、あたかも長い旅から帰ってきて話したいことがたくさんある隣近所の人のように我々に接した」
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松原久子(著)、田中敏(訳)『驕れる白人と闘うための日本近代史』文春文庫、2008年
まさに「おもてなし」の光景である。東京2020オリンピック誘致のプレゼンで「お・も・て・な・し」というパフォーマンスを見た時、私は内心「ダメだこりゃ」と思った。おもてなしの精神が悪いというのではない。私が批判的だったのは、それが無意識的な深い観念の停滞からきていると感じたからだ。
やがて通商条約が結ばれ、条約という言葉の裏に隠れた「蚕食」がはじまることになる。この時期、ルドルフ・リンダウという治外法権地域のフランス地区に駐在していた外交官の書き残した描写は次のようなものである。
最も品位に欠けたヨーロッパ人が来るようになってから、日本人の心の平和と幸せはめちゃめちゃにされてしまった。白人のいるところには、いつも危険と恐怖があった。酔っ払って大暴れする、私と同じ人種の黄金の亡者たちのやることは、悪行ばかりだった。彼らはわめき声をあげながら町を歩き回り、店に押し入り、略奪した。止めようとする者は蹴られ、殴られ、刺し殺され、あるいは撃ち殺された。我が同胞たちは、通りで婦女を強姦した。寺の柱に小便をかけ、金箔の祭壇と仏像を強奪した」
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松原久子(著)、田中敏(訳)『驕れる白人と闘うための日本近代史』文春文庫、2008年
自己完結型の性善論は、日本人の憧憬という幻影にすぎないことを思い知ったはずである。70億人を超える世界との垣根がなくなった今なら尚更だ。誰彼問わず笑顔で「おもてなし」などしていたら、これをバカと言わずして何と言う。日本がこの先も鎖国時代的コミュニケーションを実践せんとするなら、それは観念の硬直であり、ある種のコミュニケーション障害だろう。
「欧米」、「グローバル」が好きな日本人だが、「お人好しとはバカの別称である」という「グローバルスタンダード」はどうしても腑に落ちないようだ。おそらく文化的価値基準によるものだろうが、もはや「人が好い」で済む段階ではない。人の好さで国滅ぶなど、美徳どころか恥である。
前述のオランダの船医ポンペ・ファン・メールデルフォールトが来日から一年後、前回とはまったく異なる描写を残している。
「通商条約が結ばれて一年経っただけなのに」と彼は残念そうに書いている。「それなのに私の姿を見ると人々は家の中に隠れてしまう。内側で閂(かんぬき)をかけている音が聞こえた」
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松原久子(著)、田中敏(訳)『驕れる白人と闘うための日本近代史』文春文庫、2008年
通商条約といいトルデシリャス条約といい、条約なるものも支配欲動の戦略の典型、その一つである。圧力で恫喝し門をこじ開け、(不平等だが)あたかも合意の結晶としての規則をねじ込む。常にルールを支配し、好都合なルールで有終の美を飾り、自らを優等と名のる。こんなことは人類史ゲームの定石である。ルールを理解もせず観念で勝負に挑んでいるようでは永遠にゲームで勝てはしない。
日本人よ、バカの一つ覚えのような「おもてなし」も「お人好し」も、もうおよしなさい、と言おう。ずっとそれでバカを見つづけている。
圧力の針を刺し、ルールを注入して好都合に染め上げる。数百年変わらぬゲームの定石である。こういったことは人類史数千年を俯瞰してあきらかなように、これからも長期にわたって変わることはないだろう。人間とは所詮そのように頽落しつづける種族である。ゲームのルールもろくに理解しない者が勝てるゲームなど存在しない。日本人よ、もっとゲーマーになれと言いたい。

現在の日本近代史は、日本の視座から語られるものではない。それは勝者の支配原理の視座から語られるものである。「日本がこんなありさま」になってしまったことと、日本人不在の日本近代史観には何か関係があるのではないか。
松原久子(著)、田中敏(訳)『驕れる白人と闘うための日本近代史』文春文庫、2008年
ゲームの敗因
ゲームの敗因は那辺にありや――ひとつは論理と批判精神の衰弱、知識の偏頗と劣化である。
先の大戦とは、飼犬に手を噛まれるような事態であったろう、世界の元締にとっては。日本の鎖国を抉じ開け、近代化という恩顧をあたえてやったにもかかわらず、それを武器に反旗を翻したのだ。その憎悪たるやいかほどのものであったかは、それこそ戦後レジームが物語っている。
戦後、GHQは8000冊ちかい日本の書物を焚書した。人により1冊でも多大に影響しうる書物という知的社会資本がおよそ8000冊も失われれば、その社会のナラティブは変質するだろう。心理、認識、価値、規範、ありとあらゆる知の対象化運動に通奏低音のごとく影響する。現に戦後の社会的・個人的自我がこうも変質したのは、失われた知識も関係しているのではないか。
ゲームの勝者が敗者に与えたくない知識こそ、逆説的に敗者がもっとも得るべき知識だろう。その知識が焚書によって失われ、勝者が管理する偏頗な知識のみが与えられる。知識は時に筋道であるから、ある事実(情報)が陰事とされれば論理にも暗がりができる。そうして体系化された知というものにはある部分が陰のまま残り、陰として取り込む仕儀となる。つまり陰謀論の論法の本質は「謀」ではなく陰に追いやられた知識、「忘」にある。
ゲームにかんする本質的な知識を忘失したままでゲームの勝者にはなりえない。

テレビアニメ『北斗の拳』のオープニング曲は『愛をとりもどせ!!』だった。令和の今、卑劣な世界で日本人は「知をとりもどせ!!」といいたい。
12歳と45歳が織りなす稚拙な文明のなかで
歴史を俯瞰すれば、支配欲動の構造とイナーシャはある意味、単純である。日本は少なくとも200年ちかく、この単純なパターンに隷属しつづけている。ゆえにマッカーサーのいった日本人は12歳はあながちデタラメではないかもしれない。しかし、支配欲動に突き動かされる側が45歳の成熟した大人というのも誇大に過ぎる。数百年も破壊力をちらつかせた恫喝の拡大一辺倒というのも、せいぜいティーンエイジャーだろう。
こんな文明は、銀河的にみておそらく3歳以下だろう。だから私はこんな稚拙な文明には二度と転生しない、と冗談半分にいう。
日本人が異口同音にする常套句は「日本は治安が良い」だ。逆説的にいえば、つまり「世界は治安が悪い」と認めているのである。その治安が悪い世界を相手に付き合うのなら、我々はどうあるべきかを論理的に考えなければならないのは自明である。それを永久に放擲するというのなら、もはや知的に狂っているといわざるをえない。
ブレジンスキーは日本をFragile Flower(ひ弱な花)
だといった。しかし切羽詰まった今、さらなる痛言にしなければならない。日本はLunatic Flower(狂った花)として衰滅するだろう――
徒花満開の「衰滅前夜」である。