
個人主義の解剖学
もはや利己主義ですらいられない
「個人主義」といえば利己主義のように誤解され、独身貴族のように揶揄された時代。そんな時代はとっくの昔に終わっている。
(専制)資本主義、(専制)民主主義――隠された専制という二文字を冠した大主義をまえに、個人主義はもはや利己主義ですらいられない。
「個人主義」が「虚人主義」へと変質するさまを目の当たりにする今、「個人主義」を解剖する。
順応と反動の主義
「主義」には「順応」から生じるものと「反動」から生じるもの、大別して二つある。 たとえば、肥大した資本主義の性格への「順応」は「拝金主義」となり、「反動」は「社会主義」や「共産主義」の旗幟をあおる。
環境・境遇が或るエントロピー★1を増大させるとき、その煩雑さとの同化を志向するものと排他しようとするものとに分かれるのだ。これは感覚作用である。
怖いものは、やっつけるか友達になるしかないんだ
(望月峯太郎、『ドラゴンヘッド』講談社、1994年)
という「ノブオ」の言葉はけだし名言だ。
昨今では単なる「流行」の類を「主義」とよぶこともあるが、「流行」と「主義」は根本的に異なる。「流行」は不連続な感覚作用として現れるのにたいし、「主義」は連続的な現象の上に恒常性を目指して現れるものだ。
★1 エントロピー――ここでは煩雑さ、ごたごたした状態、といった解釈。
個人主義
拙論では昨今よく耳にする「個人主義」をとりあげる。「個人主義」を単に物や関係の数量で定義すれば、流行・様式の域をでない。それをとりまく状況を俯瞰することで、より深層の論理が見えてくる。
「個人主義」も順応あるいは反動の結果としての「主義」である。何にたいする順応あるいは反動かといえば、主要点として「経済的事由」と「共同体の機能不全」だろう。国内のさまざまな状況が凋落曲線に入って以降、顕著になった「主義」には、やはり社会的裏付けがあるとみていい。つまり現在、国内の「個人主義」は「緊縮の意識」と「自己責任原理」に端を発する「主義」である。
たとえば、総務省の「国政選挙の年代別投票率の推移について」というデータをみれば、全年代の投票率はおおむね下降している。このことは「個人主義」が頭をもたげる世態において当然の結果である。
「個人主義」においては政治への関心、投票という行為に価値を見出さない、というのは一理ある。ちなみに私は「個人主義」にことさら傾倒するものではないが(独一個人は個人主義の観念ではない)、この主義の立場で論を展開してみよう。

現代社会の制限への順応・反動としての個人主義もまた葛藤の主義である。
個人主義の言い分(Ⅰ)
まずもって、政治への関心、投票という行為はコストパフォーマンス(以下コスパ)★2がわるい。政治をより理解しようとすれば、時間やら思考やら(広義の)コストがかかる。最低でも近現代の範囲の世界的な歴史・人脈を知らねばならないし、カネの流れもトレースしなければならない。しかもそれらはググって1ページ目にでてくるような皮相な情報ではない。出自のたしかな膨大な資料に向き合う必要がある。
仮にそこまでのコストを費やしたとして、リターンはといえば約1億分の1票である。これを「コスパがわるい」と言わずしてなんと言う。ロト6の1等ですら約600万分の1だ。「割に合わない」ということであれば、個人にとって政治はロト6以下だ。
自らの反応の範囲を影響・実現可能性の高いものに限定するのは、有限の能力である人間なら当然のことだ。「人生、浪費をしている暇などない」と個人主義にはしることを一方的に咎めることなどできないだろう。個人主義者の政治・社会への無関心は、政治・社会の歪の反映でもある。
★2 コストパフォーマンス――投入される費用や作業量等にたいする成果の割合。

1000のコストも0のコストも、リターンはおなじ「1票」。一般人が政治へのコミットをいやがることにも一理ある。
個人主義の言い分(Ⅱ)
グローバリズムにイノベーショナリズム――社会を主導する大主義は個人主義への道を拡幅している。
コスパ観念のトリクルダウン★3とよぼう――。企業がよりコスパのいい人材獲得に奔走すれば、下部構造にある適合人材らもまたコスパ追求型の信念体系にならざるをえない。企業が非正規・賃金削減を志向すれば、下部構造では「結婚はカネがかかる」と非婚、少子化が進む。コスパ観念のトリクルダウンである。
日本は社会の上部構造にある政府や企業がこぞって個人主義を不意に推奨しているのだ。にもかかわらず「少子化は問題だ」などという。火に油を注いで「大変だ」といっているのだから、これがコントでなければもはやキ印の沙汰である。
環境に適応するのは生物の本分だ。個人主義者や最小限主義者は適者生存の原理にしたがったまでである。自然権の行使の範囲といってもいい。ここでも「人生、浪費をしている暇などない」と「コスパ主義」にはしることを一方的に咎めることなどできないだろう。
★3 トリクルダウン――ここでは上部構造から下部構造へこぼれ落ちるさま。

生存に有利な選択としての「個人主義」を咎めることなどできないだろう。
個人主義批判の詭弁
このような経緯から個人主義者となったものに稚拙な批判をあびせるものもいる。「子供をつくらないのは国家・共同体への奉仕の放棄だ」などと。これこそコントである。では批判者は、お国への奉公として子作りに励んだとでもいうのか。戦時下の「産めよ増やせよ」の精神で。それらすべて都合のいい詭弁、似非ナショナリズムの虚言、妄言である。
このような個人主義者への批判は、そのほとんどが結局、状況的な不満を相手に投影しているにすぎない。いかにも殊勝な言説をもちだすのは自欺を糊塗するものの常套手段である。彼らに国家への奉仕者としての一貫した行動規範をみることがないのがその証左だ。これには真のナショナリストも苦言を呈するべきではないか。
幸福な家庭人は「個人の価値観、選択のちがいだからねえ」とじつにおおらかなものである。
主義と社会・組織
個人主義者は、その主義を極めんとするなら尚の事、対義的にある社会や組織に無知であってはならない。
――彼は組織を完全に否定し、こんなことをいう。「ネットがあってゲームがあって、アマゾンが来れば生きていける」――。彼は絶賛する映画やゲーム作品のエンドロールにつらなる製作・制作関係者に組織をみない。雨の中、荷物を届けてくれる配達員に社会をみない。彼が手にしたハードウェアは彼の社畜という侮言、その組織からのみ生まれえる物である。つまり彼は偏頗である。
-主義者となる仕組みはリニアモーターカーの仕組みに似ている。つまり社会・組織という電磁場が個人への吸引力と反発力とを発生させる。吸引力に傾けば「順応の主義」をたくましくし、反発力に傾けば「反動の主義」をたくましくする。
しかし、いずれの主義も社会・組織と断絶しては根本的に成り立たない、前提としての社会・組織がある。
完成された個人主義というものも他の主義同様、かならずや社会・組織との平衡の上にのみあらわれる。個人主義者のみならず-主義者たるもの、このことは夢々忘れてはならない。
これからの個人主義
結論を先回りしていえば、これからの個人主義はおおむね「虚人主義」となるだろう。これは前提たる社会・組織の傾向をみれば妥当な予測だ。「雰囲気」をふいんきと読む誤りが正されることなく標準となるように、「個人」は虚人となるのである。
どのような大主義も、対する「反動」の主義を許さない「専制主義」である。(専制)資本主義、(専制)民主主義、(専制)社会主義、(専制)自由主義――大主義は隠された専制という二文字を冠している。
(専制)全球主義という極大主義への「順応」しか許されない状況において、個人主義はもはや利己主義ですらいられない。「個人」はふたつの「虚人」へと分裂する。
個人をいきなり直付け可能な世界などというものは、技術の作り出す仮想世界にならざるをえない。であればこそ地域や共同体という中間的かつ機能的かつ有機的時空が歴史的構造に内蔵されてきたのである。
ともかくはっきりしていることがあります。それは、ワールドが「直接の関与が可能な空間」であること、したがって世界は「俗界」のことだという点です。世俗の世界、つまり「世間」がワールドなのです。(中略)このことを明瞭にしているのが(ワールドの形容詞である)「ワールドリー」(worldly)という言葉です。それは、明らかに、「世俗的」という意味なのです。
――
西部邁『昔、言葉は思想であった――語源からみた現代』時事通信出版局、2009年。
技術によって拡張されたといわれる「世界」とは、情報の移転、あるいは仮想の世界のことである。それらを誇張して「世界」といっているにすぎない。直接の関与が可能な「世間」は拡張どころか機能不全に陥っているのが実際のありさまだ。こうして「反動の個人」は籠城の「虚人主義」となり、「順応の個人」は情報被制御物と化し、やはり「虚人主義」となるのである。
「反動の個人」の籠城生活は「反」として文明社会の舞台の隅っこ、あるいは舞台裏で小規模に営まれることになるだろう。籠城というからにはあらゆるリソースに有限の観念をたくましくするが、これは「順応の個人」からみて「虚人」である。
「順応の個人」の情報被制御物としての生活は「反動の個人」からみて「マス」であり、システムの亜粒子である。それはもはや「個人」とは似て非なる「虚人」と映ずるものである。
こうしてふたつの「虚人」はおなじ「虚人主義」にありながら世間を同床異夢のカオスに染め上げる。これが現代の個人主義の本質的な前提のひとつであり、およそ個人主義の精神の解剖のうちにみられる主要な腫瘍である。

自らが「個人」とは似て非なる「虚人」となっていることすら自覚しない、自己批判を差し向けない「虚人主義」。その陥穽にはまらず生きられる人間は、おそらくほんの一握りだろう。