技術の進化という頽化

技術テクノロジーの進化という頽化

やれ「進化」だ「進歩」だとかまびすしい「技術」の世界。その「進化」だの「進歩」だのをよくよく見てみれば、眉唾物があるわあるわ。たとえば、スマホのカメラ機能の美人、美肌効果。あんなものを「進化」だ「進歩」だと謳われては、ダーウィンもたまったものではない。昨今の技術の進化の裏は、どうやら「過剰性」のようだ。「過剰性」を進化とよぶ「技術」の詐称にメスを入れる。

技術テクノロジーにうつつを抜かすものたち

1995年から現在までのおよそ25年間で、インターネットの情報量は100万倍になったらしい。IBMは70ミクロンのコンピューターを開発しているらしい。近い将来、AIは人間の脳を凌駕し、産業革命を超えるかもしれないほどの変化を人の世にもたらすらしい。企業の時価総額ランキングは、これからAIとデータを扱う企業が上位を支配するらしい――

技術の進歩の鼻息荒い報告に、ではその右肩上がりの進歩が人の本来性にどう関係するのか説明してくれ、と問うてはどうだろう。

新しい技術の向上した分、市場(しじょう)とよばれる仮想現実における一般的労働者の価値が下落した側面をみる者は少ない。むしろ性能の向上をただ喜んでいる。無邪気なものだ。イノベーション(革新)に適応することが時代の波に乗るということだ、と仕掛ける側の寡占体の惹句にほだされ、前のめりになる。

しかし、その「波」はごく短期的で、波に乗りつづけようとする大衆の浮動が寡占体へエネルギーを供給しつづける。落ち着けない社会の加速と拡大に自ら加担するということが、今や自動症となり人格の域にすら達しているもの。それが圧倒的大多数、マスマン(mass-man)である。

技術という歯車のみが異常に肥大し、社会全体として平衡をとるための他の歯車とうまく連動できなくなる。結果、へんてこな挙動をしているのが現在のイノベーショナリズム(革新主義)の景色ではないか。そして、そのへんてこな挙動で社会という筐体から振り落とされたり振り落とされかねない不安定を強いられているマスマン。便利さと新しいものに目がないマスマンの「イノベーション好き」にペーソスをみるのは当然だろう。

イノベーショナリズムの手段としてテクノロジズム(技術主義)がある。その橋頭堡としてポピュラリズム(人気主義)とヴァンダリズム(文化破壊)が前にでる。およそこの三段論法でイノベーショナリズムが猖獗をきわめるに至るのである。

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主要なメディアが人気のアイコン(偶像)を使い、絶えず以前のバージョンの制度、慣習等を貶下し、テクノロジズムを礼賛する。その度に「進化」と銘打ってはいるが、本質は「過剰性」と「多動症」である。

過剰性に沈滞する技術テクノロジー

シュペングラーは、文明の没落期、技術のシステムは人の精神や想像力といったものを飲み込んだ後、錆びつき停止すると予告した。ステントは、人々は進歩の果てで進歩への意欲を失い、自分の快楽中枢に電気的な刺激をあたえるような手段をとると予見した。トインビーは、技術的進歩と道徳的頽廃には密接な相関関係があるのではないかと考えていた。

前段の予測はおおむね、否、精確に当たっているといえるだろう。冥王星まで飛んだNASAの探査機「ニュー・ホライズンズ」よりはるかに高性能のCPUを搭載したスマホですることはなにか。差別化のアイデアの枯渇をエロで埋め合わせたようなゲームや、激辛の香辛料でもんどりを打つ人間を鑑賞することである。

技術が金銭的利益を含む数量の拡張にのみ使役され、もはや過剰性にしか伸びしろを見出だせない。そのことが、現在の技術が人間と文明に「春」ではなく「冬」をもたらしている原因だ。それはさながら漏斗で食物を流し込みつづける「フォアグラ」の生成機序である。そうして人間の精神は脂肪肝のような過剰性に技術ともども沈滞しているのだ。

過剰性は満たすのではなく溢れさせるのであり、それは意味や価値の流失、散逸を意味する。たとえば、かつての黒電話による一対一の関係と、現在のSNS等の一対∞の関係における意味、価値を考えてみるとどうか。ただ拡張しただけの関係性は、本旨に関係のない脱線や悪罵で煩雑になり、意味や価値が∞倍されるということなどないのだ。それは人間にとって正価値なき拡張、過剰性である。

私たち人間が本質的にもとめていることは、かならずおとずれる死を前提にした人生の意味や価値だろう。技術にもとめるところは、それらに資するものであるはずだ。意味も価値も前提としない過剰性にとり憑かれた技術など、たいていは人間に消極的虚無をもたらす負価値なものでしかないのだ。

忘れてはならないのは、「技術」なるものはそもそも中立的価値である。その「技術」がこうもひどい過剰性の陥穽にはまった原因。それは人間が自らの知性についてすら恬として真剣に臨まない、他人の容喙をだらしなくゆるしてきたからだろう。文明の冬の今、喫緊にもとめられていること。それは、人間にとって、各人にとっての技術の意味と価値を総括した、技術の再定義ではないか。

「知」なるものの価値も実践も、解釈も尺度も、技術にしか見出せない技術カルトの文明・社会――

「技術」が過剰性しか追い求められないことこそ技術の悲劇である。人間が技術の過剰性にしか進化を見出だせないのなら、それは頽化である。技術もまたニヒリズム(虚無主義)に陥っているということに気づかねばならない。

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過剰性にとり憑かれた技術は人に短期的な多幸症(ユーフォリア)をもたらすや否や、黒胆汁(メランコリア)に変質する。

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