
自滅の刃
現代の八百長文明と唯我主義
八百長文明では、信じられるものがない。強いて言えば「イマという瞬間的時間と、カネという価値と、ジブンという神経系のみ」というのも無理はない。
現代の八百長文明と唯我主義
およそすべての私の終わりは一般的に「死」である。クリシュナ★1ではない凡俗は「存在」の涯を「死」におくとみてさしつかえない。
「死」をもって私が滅ぶのだから、私に在る社会や国家、種や地球といった観念もまた滅ぶ。私の感官に端を発し存するものの滅びである。だから私が滅んだ後、世間が地獄のようになろうが、ヒトが絶滅しようが、地球に小惑星が衝突しようが、知ったことではない。思う我なし、ゆえに有もなし――これが一般的存在観(一般的唯物観)であろうとの推量のもとにすべての議論のフレームをこしらえなければならない。
やれ国家の少子化だの地球の温暖化だの、それらを「問題」として個人が私の俎上に載せるかどうかは納期次第だ。私の存在中に私の「死」に直結する現象にならないのであれば焦眉の「問題」ではない、あるいは「問題」ですらない。おまけに納期とは名ばかり、といった世運である。実際、世は煽情商法とでもいうべき無責任で詐欺めいたものだらけだ。
How much pain they have cost us, the evils which have never happened.
ついに起こらなかった害悪のために、我々はどれほど多くの苦しみを味わされたことか!
──
トーマス・ジェファーソン
世間の相場というのは馬鹿にできないところがある。「イマだけカネだけジブンだけ」は過剰な八百長文明に圧されデフォルメされた唯我主義という視座もある。
そのような唯我主義者の集まりが織りなす社会は、有機的総体としてもはや輪郭を保つことはできない。個別ばらばらの唯我主義者を磁性流体のごとく統治する、磁力に相当するのは「技術」である。八百長文明と技術は二幅対であり、社会の輪郭は技術に依存する。
八百長文明では、信じられるものがない。強いて言えば「イマという瞬間的時間と、カネという価値と、ジブンという神経系のみ」というのも無理はない。
これが「頽廃」であり、「頽廃」は現代の大前提となる。やさぐれた人々は捻くれた文明・社会の構造に由来し、また増長もさせる。
★1 クリシュナ――『バガヴァッド・ギーター』に登場するアルジュナの御者であり神の化身。
自滅の刃
唯我主義者が常住坐臥、志向するのは、現象の条件のなかで、いかにより安康に「生存」するかについてである。八百長文明とそのシステムの統治において、私人性すら危機に瀕し、漂白され、存在の意義はやがて単なる「生存」のみとなる。「生存」が私に先立つものであるがゆえに、彼らには「生存」に先立つ価値や規範がない。別言すれば「生存」が目的となり「手段」ではなくなるのである。よって必然的に唯我主義者は日和見主義者でもある。
しかし、いかに日和見で八百長文明に適合しようとも、その適合もまた虚儀にすぎない。現代の八百長文明にたいする唯我主義の本質は、「目的」となった無意味な「生存」、つまりニヒリズム(虚無主義)である。
無意味な「生存」は文明のエントロピーを、現象の頽廃的側面を拡大させつつある。私はおろか「生存」の本来性とすら齟齬をきたす。
情熱というより地政学的保身、理想というより神経症的自己保存――一見、適合の態度のように映るも、やがて自欺が、虚無性が、構造を内部から腐朽させるだろう。
現今の世の頽廃を、唯我主義を叱咤する論説はもはや不用。もっとも実践的な批判としてのニヒルな「適合」あるいは「迎合」が、嘘と仮想の八百長文明に意思も表情もなく刺撃を加えることだろう。文明・社会のアポトーシス★2。これを名付けて「自滅の刃」という。
★2 アポトーシス――細胞の死の様式の一つ。プログラム細胞死。

知的生命にとっての絶滅とは、最小存続可能個体数を割ることではなく、不可逆的頽廃に堕することではないだろうか。