箱庭生活主義「オサムシズム」

グローバリズムの反対、
箱庭生活主義「オサムシズム」

「オサムシ」という虫は翅(はね)が退化して飛べない種が多いため、大きな移動ができず、結果「地域変異」が豊かな虫だ。有り体にいえば、身体までその地元に合わせた「地元特化型」の昆虫、といったところか。この虫の生きざまに、これからの時代のアイデアをみる。大きな空間を必要としない、箱庭生活主義をオサムシズムと名づけよう。

単純な同化主義、グローバリズム

はじめに、現「文明」の近状をとらえておこう。

IoT★1やDX★2といったテクノロジズムは猖獗をきわめ、人はますますサイボーグ(情報被制御物)化している。それに伴い、精神や想像力の廃用萎縮も加速しているといったありさまだ。こうした「文明」の景色の淵源にあるのは技術の次元に単純な合理を据え置いた、単純な同化主義「グローバリズム」だ。その機序と原理はおおよそ次のようなものだ。

1「技術革新」、「効率化」、「トレンド」といった体で既存の仕組み(価値体系、慣習等)を制御破壊的に間断なく破壊する(経済的機会の破壊的創出)

2そこへ大規模で統一的な商品、サービス、プロトコル★3をコモディティ(共通必需品)として社会のインフラ(下部構造)に仕掛ける

3インフラの画一化をもって地球規模グローバルで「同化」する。精神的、文化的なものは技術の次元における非合理として貶下の対象となる

4そのイズムの裏面は極大化した「マモニズム(拝金主義)」である

よい、わるいといった価値判断はさておき、大筋こんなところだろう。この強引で拙速な同化主義の導く景色はろくなものではないだろう、と予測する。なぜか。

★1 IoT(Internet of Things)――種々の「モノ」がネットに接続され、相互に制御する仕組み。
★2 DX(Digital Transformation)――ITの浸透が人々の生活のあらゆる面をより良く変化させる、という仮説。
★3 プロトコル――ここでは社会的慣習(歴史的慣習ではない)、規則の意。

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インフラにのみ焦点をあてたグローバリズムは、換言すれば「唯物観」である。

文明を有機的に昇華する文化

ファウナ(動物相)というものは自然現象だ。「文化」というものもまた、高度な大脳新皮質を得た人間という種にみられる独特のファウナである。真にグローバル化(同化)するというのであれば、気候風土からDNA、一切の同一を目指せといいたい――むろん、不可能だが――。そうでなければ、現象の皮相のみを同じにして深層で大いに異なる歪な多律背反の世界ができあがるだろう。

以前、ある温泉宿へ行ったときのことだ。お目当ての露天風呂は見事なもので、格別の時を過ごす思いで湯に向かった。その時――隣の離れの外国人の客が複数人、奇声を発して露天風呂に飛び込みはじめた。間欠泉のごとく湯がはげしく飛び散った。

これには異文化人の不知とはいえ憤りを覚えた。宿に断ってやめさせようかと考えたが、終始感じ良くもてなしてくれる人たちの曇る表情が浮かんで、ほとぼりがさめるのを待った。

外国人の彼らにすれば、ネットで予約し、カネを払う以外になにも決まりはない、何の文句があるのかと言うだろう。しかし文句は大ありである。その文句の出どころは文化的な背景からだ。グローバリズムが歯牙にもかけない「文化」が精神体としての人間にとってどれほど深い意味をもつものか。

そんな憤りを覚えるのも、なまじ「文化」などがあるからだ。だから「文化」などなくしたほうがよい、というものもいるだろう。しかし、それは軽率な論理である。話の流れに沿って、この露天風呂から一歩もでることなく私なりの「文化」の価値を論じよう。

そも、すでに見た外国人の振る舞いと私の感情との軋轢こそが文化招来の必要性なのだ。 互いに影響しあう時空間上に自由意志を配置するとき、かつてのどの土地・時代にも軋轢はあった。凄惨な闘争劇も度々であった。その苦渋のなかで、こけつまろびつ、ためつすがめつ、平衡が求めつづけられた。そして、数百年、数千年のビッグデータからようやっと析出された歴史的慣習、精神のかまえが「文化」ではないか。

「文明(技術)」をとおして人と人が相まみえ、「文句(軋轢)」が生じる。その平衡をとらんとして最後に据え置かれるものが「文化(平衡のための精神と知恵)」である。「文化」にはかならずや平衡術としての性質、意味と価値の体系が内蔵されているとみていい。郷に入っては郷に従えの言葉が根ざすのはまさにこの認識だろう。

グローバリズムの導く景色はろくなものではないだろうと予測した。それは削足適履(靴に合わせて足を削る)、本末転倒の事態をまねくだろう。単純な同化主義によって、人類が上ってきた長い階段をはじまりの野蛮に向かって下りるというのか。ほとほと、呆れてものも言えない。

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グローバリズムの「globe(地球)」にたいする視座は平板きわまりない。せいぜい円周の巨大な岩石といったものではないか。惑星、地球もまた我々とは異なる姿形の「生命」であり、複雑性と相似性の平衡の上に恒常性を保つ小宇宙だ。「文化」とは小宇宙、地球の多次元的、部分的な位相を人間の解釈によって表した、いわば「自然」な「現象」ではないか。

グローバリズムの反対「オサムシズム」

ここで、現在の「日本」の近状をとらえておこう。

日本はどういうわけか――といいつつおおよその理屈は察しているが――、みずから斜陽国家への歩みを止めない。この先も止めないだろう。その歩みの方向は単純な同化、グローバル化である。

その日本に生まれ、取捨選択を繰り返し、できた個性は「小文化」である。私からみれば、かなり「雑」にできている現「文明」に、上位観念の――小とはいえ――「文化」を明け渡すことはしない。現代文明にそこまでの値打はない。追従する価値もない。 過剰性しか売りがなくなった文明の利器との別れを惜しむほど、テクノロジズムの自動症に侵されてもいない。

つづめて言えば、私は『iPhone』の最新機種などいらない。湯にゆったりと浸かれるほうがいい。剛健な価値に聡いのは文化であり、断じてトレンドではないのである。

小文化圏オサムシズム。それはやがてその名のとおり地球(globe)を覆い尽くすだろうグローバリズムからの「浮揚」である。

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オサムシズムに一縷の望み

「オサムシ」は「地域変異」が豊かな虫だ。そのため多様で、ヨーロッパでは歩く宝石という美名をあたえられ、愛好家もいる。他方、じみな見た目から日本ではゴミムシと扱われるなど、ユニークな虫だ。

かくいう私も子供の頃は昆虫大好き少年だったので、オサムシをよく捕まえた。ただ、甲虫王者然としたツノが立派なカブトムシや、そのライバル的存在感を放つクワガタと比べると、じみそのもの。少年の私は「オサムシ」を捕まえても「なんだよ、オサムシかよー」とすぐにリリースしたものだ。

この「分かるやつには分かる」という在り方。これこそがこれからの、黄昏時の日本で――同化主義に与せず――個性的に生きるヒントになる。グローバルな押し付けの価値基準のもとで貧果に甘んずるより、局在化した箱庭のなかで豊からしさを感じる。知足のよろこびに根ざす。鶏口となるも牛後となるなかれである。

私はこれまで同様、残りの生も「オサムシ」でいく。触覚を付けて出歩くというコスプレではない。そこのところ、くれぐれもよろしく。

赤い丸は自分にとっての利。青い部分は川。 いたずらに活動を拡張することが豊かさにつながるとはかぎらない。

オサムシは大きな川を越えず、自らの活動範囲をテリトリーで安住する目的にしぼる。この戦略には共感するところがある。小さく狭い範囲でも腰を据えた活動のほうが生産的な場合もある。

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