202Xからの共同体デザイン

日本の凋落で浮上する
協同労働と労働者協同組合法

猖獗をきわめる破壊的創造主義、不確実性の加速と増大、超少子高齢化社会――日本の凋落という大局は、もはや阻止限界点を越えてしまったかのようにみえる。そして、列島に生きる多くの人々に種々の選択を迫る。凋落のイナーシャからの「脱」思考は、「コミュニティ」や「協同労働」という概念を浮上させるだろう。2020年に成立した「労働者協同組合法」をふくめ、脱社畜社会について論を展開してみよう。

日本の凋落という大局

猖獗をきわめる破壊的創造主義(営利主義、革新主義、技術主義等)

自棄と隷属のイズムに突っ込んでいく近現代の日本。平衡感覚をかなぐり捨て、営利主義コマーシャリズム革新主義イノベーショナリズム技術主義テクノロジズムの類に淫する。その淵源は、第一に人類の活動と不可分の技術の進展とそれにともなうグローバリズムの拡大。第二に、日本の場合、開国と、以来、最大のショックである先の大戦の敗北を超克するにいたらなかった経緯を因とする迎合的体制。こうして文明社会における遅効性のともいうべきものが、いよいよ致命の臓器を冒しはじめたとみえる。

不確実性の加速と増大

不確実性の増大は、現文明の主流が破壊的創造主義である以上、必然である。制度に耐久性がないのは、常に制御解体が前提となる構造だからだ。今や流動性と多動性、つまり不確実性が文明・社会に生ずる現象の前提である。

泥舟と化した短命の全体において、浮動性のあるものの価値は増大する。いわゆるカネ、トレンド、ギジュツの類である。これらを浮袋とし、沈む泥舟から次の泥舟に乗り換えつづけることが慣習にまでなり果せたもの、これを現代人としよう。デラシネ(根なし草)となった人間に、そもそも確実性などないのである。

超少子高齢化社会

私は予知の類は話半分より少ない話四半分程度にしか聞かない。気象衛星からのデータを根拠にした天気予報も、推測の域は小さくないだろう。

しかし、人口動態にかんする予知の類はそれよりは参考に値する。人の生き死にというのは風や雲よりもかたく、おもい現象であるから、そのマクロな動態予知は天気予報よりは信憑性がある。

内閣府等の調べによると、今後約20年間、2040年あたりのピークに向けて65歳以上の人口は増加傾向がつづくとされている。それに加えての少子化だ。今後約20年間の超少子高齢化社会は既定路線だろう。現在そしてこれからも日本に定住しようという人間は、この予知を棚上げにすることはできない。

破壊的創造主義、不確実性の増大、そして超少子高齢化を大背景に、生計を立てる覚悟と知恵。日本で生活を営むもの共通の大課題である。

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日本は自らに刺さった毒矢を抜く意思すらないようだ。かつては外圧によって目覚める国といわれたが、もはや昏睡状態である。

企業国家――私企業と政府機関の複合体

ここでは企業国家を私企業と政府機関の複合体とする。複合体として同質であるから、意思も振る舞いもおなじである。マンモン★1を至高とするような唯金主義、それが企業国家のイデオロギーだ。さらにたちが悪いことに、ただの企業国家ならまだしも、凋落の慣性のなかではおおよそブラック化する。

すべてカネしだい、トレンドしだい、ギジュツしだい。オフィスにおいて「売上がきびしいので、オフィスグリコ★2はやめます」といった判断基準で、公共財も社会保障も削られる。もはや国民とは名ばかりの、その実企業国家の社畜である。三度の飯より「安心・安全・安定」が好きな日本のマジョリティーにとっては、まさに艱難辛苦の時代の到来だ。

寄らば大樹の蔭といいたいところだが、企業国家、日本はすでに腐木へのイナーシャ(慣性、惰性)に飲まれている。漸減する「安心・安全・安定」にしがみつくのか、鶏口となるも牛後となるなかれ、自尊と自律の一歩を踏み出すのか。今後、約10年から20年のあいだに、多くの人間がその選択をせまられることだろう。

★1 マンモン――偶像としての富。財神。

★2 オフィスグリコ――江崎グリコの子会社、グリコチャネルクリエイト株式会社が展開する置き菓子サービス。

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企業国家は維持機関ではなく変革機関であるから「安心・安全・安定」といった恒常性はその性格に合わない。

逆境からはじまる独一個人と浮上するコミュニティ観

列強企業国家によるM&Aの草刈場として、近現代の産物を片っ端から収奪され、価値が底をつきしだい梯子をはずされる――日本が凋落の企業国家となった今、これから先のシナリオは大筋このようなものだろう。残る選択肢は、その被害の軽重をいくらかコントロールするにとどまる。自浄作用としての自己批判能力を失った国家もまた個人同様、頽廃の運命に入るのだ。

このようなシナリオを冷徹に推理し、可能性への「覚悟」をもつものは、もはや自らのオフィスの席を一所懸命の場としない。人生の意味と価値、死生観におよぶ価値の編纂と再定義の作業に入るだろう。

マスの亜粒子として死んだように生きる人生100年時代など、なんとも皮肉な「紀寿」である。

今後、約10年から20年のあいだに、多くの人間が「依存」か「自律」かの分岐に立つ可能性を述べた。換言すれば、他律からの提案のような「豊かさ」とされる既成観念を手放し、自ら「豊かさ」という観念の創造に挑む気概があるかどうか。

2022年になっても、その内実は昭和97年平成34年というこの国のイナーシャ。そのなかで定説の外にでる生き方、「コミュニティ」の新興・再興は困難な道のりだろう。他方、収縮する企業国家で雇人として生きる道もまた席暖まるに暇あらず、困難な道のりだろう。迫られる選択。

自らの生の意味と価値に強い関心(積極的・選択的な心構えと感情)を自覚する個人性の発揮からはじまるルネサンス(再生)。生の思想からの選択と再生が、今後、社会のレイヤーを大きく分離させることだろう。これまでの金銭的な「格差」が「次の分離のレベル」へすすむ時代の入り口が、まさに今ではないか。

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ドアの先に何があるのか――その不確実性のはなはだしさたるや、一世代前とはもはや別次元である。「トイレ」と書かれたドアが本当にトイレかどうかは分からないし、書かれた文字が悪意あるいたずらか、落書きかもしれない。