コミュニティ観の勃興――
安易なコミュニティ観と新たなコミュニティ観

国家をなくして、みんな地球市民になろう――先日、じゅうぶんな見識があると思われる御仁が、意外にも素頓狂なことを言い出して驚いた(呆れた)ものだ。上述したような「カオスなありさま」に業を煮やしたのだろうか。国家をなくし、この惑星は小さなコミュニティの集合体になればいい、というのである。

紀元前からあっただろうこの手の発想が「間の抜けた空論」にしかきこえないのは、数多の論理をすっ飛ばしているからだ。飛躍が過ぎるのである。実現していないのもそのためだ。頭の中で『テトリス★4』をやると、都合よく「I-テトリミノ★3」をだして都合よく「テトリス★4」が決まるが、これと似たようなものだ。

仮に、彼の望みどおり、日本一国だけでも「国家」から「コミュニティの集合体」への変貌を遂げたとしよう。総人口1億を超えるコミュニティ体。彼はさぞかし「胸を熱く」するだろう。しかし、それはごく短期間で「胸が騒ぐ」状態となり、最終的には「胸が裂ける」思いへと変わるだろう。なぜなら、次のようなある一つの事態にすら対処できないからだ。

国家の規模の経済力と軍事力とを保持した文字どおりの「国家」が、極小社会に圧力をかけてきた。彼の論では、エネルギーその他、地産地消規模の体制ということだから、その圧力に抗する能力の担保がない。それともなにか、地域住民が民兵となって、16世紀の武装でハイテクのスマートウェポンを相手に立回りを演じろというのか。

さらにありえないことではあるが、世界の構造を国家ではなく小さなコミュニティの集合体へと遷移させるのだとしよう。「およそ200の国家」と「およそ80億もの意思」が「同じ目的」を「同時に」目指す未曾有の「奇跡的」プロジェクトである(この時点ですでに空論の証明だが)。

それとて結果はおなじである。暗黙のうちに国家的体制を温存したものが一つでもあれば、極小社会はその優位性を反芻する。あげく、地域は国家の再興をとなえるだろう。

彼のいう「多様性と持続可能性に満ちた未来の田園コミュニティ」は小学生が卒業文集に書いた夢と変わらない。

数千年前から人の本質はなにも変わってはいないし、進歩もしていない。この傾向線を変化させる理路もなければ目処もない。カネと、トレンドと、ギジュツの不可逆的な現象の変化があるのみである。人間の正善性や理想的帰結を信じすぎるきらいは、単なる無知である。

グローバリズムの拡大、ナショナリズムの変異を前提とし、それらと平衡をとりつつ浮かぶコミュニティ。それこそが現実的なこれからのコミュニティだろう。外郭としての国家があり、その内郭としてあるコミュニティという連関構想でなければ、現状、リアリティをもちえない。

外郭は物理的な関係により比重をおくインターリージョナリズム(国際的地域主義)★5に向かうとしよう。それにたいする内郭はインナーリージョナリズム(精神的地域主義)とでもいおうか。「人間組織」としての特性、維持機関としての価値に向かう。現在の全体性のなかで未供給の価値を供給する存在。

コミュニティを企業社会から離脱した隠れ里にすることなく、新しい価値のラボ(研究室、実験室)とする。もっとも自由度の高い、もっともニッチなプロジェクトの実験場。その過程には、全体性にも個性にも資するイノベーションの可能性があるだろう。これまでのような社会の変革目的ではなく、維持目的のイノベーションが。

★3 I-テトリミノ――7種あるテトリミノのうち、「テトリス(4列消し)」を決めることができる唯一のテトリミノ。

★4 テトリス――「落ち物パズル」というジャンルを確立させた、マイルストーン的ゲーム作品。ゲーム中の4列消し「テトリス」のことでもある。

★5 インターリージョナリズム――地理的・関係的にちかい複数の国家が連携を強化していくこと、またそのような考え方。21世紀現在、経済政策や安全保障を一国で行うには規模・能力等が足りないことから、様々な組織化がなされる。欧州連合(EU)、東南アジア諸国連合(ASEAN)等。

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巷間のコミュニティ論の多くがお花畑のコミュニティ論であることに懸念を抱く。コミュニティは音楽バンドではない。およそ極度の近視論か極度の遠視論にかたより、ピントの合った議論はじつに少ない。

これからのコミュニティと協同労働

これからのコミュニティは、これまでの「コミュニティ」の観念に縛られるべきではない。現在、「地域社会に資する協同労働」というイメージもまた、旧態依然のこの国のイナーシャに縛られている。つまり、質朴な活動内容や地域空間、社会的マイノリティのセーフティ機能やセカンドキャリアといった類のイメージである。

202Xからのコミュニティには、より積極的な姿勢がもとめられるだろう。まっとうな代案オルタナティブとしてのポスト獲得が最初の橋頭堡である。この道のりにかんして、それほど悲観的ではない。仄聞するに、優秀な技術・専門者が代案オルタナティブとしての新たな活躍の場をもとめている声があり、そのような人材をもとめる声もある。

上述したように、グローバリズムの拡大とナショナリズムの変異はもはや不可避である。それらをアンチとした態度ではなく、平衡をとりつつ浮かぶコミュニティ・デザインにこそリアリティがある。ビジネスモデルにもそれら平衡点を積極的に取り入れるべきだろう。たとえば、気鋭のデジタルスキームやデジタルコンテンツが「協同労働」から一定数生まれれば、この潮流は活気づくかもしれない。

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「地域」、「コミュニティ」という言葉のイメージにとらわれないことが地域とコミュニティの可能性につながる。