ブラック企業の起源

ブラック企業の起源
なぜこうもブラック化するのか

1989年、栄養ドリンク「リゲイン」のCM――24時間戦えますか――当時から「ブラックな発想」はあった。だがネガティブ・ワードにはならなかった。ブラック企業の起源をさぐる。

ブラック企業からはじまった社会人生活

私はかつて「ブラック企業」に勤めていた。しかし当時「ブラック企業」という認識はなかった。それもそのはず、ウィキペディアによれば、「ブラック企業」という言葉は2001年に「2ちゃんねる」の就職活動板で生まれた言葉、とある。私にとって初となるブラック企業体験は2001年。つまりブラック企業という言葉の誕生とともにブラック企業に入社するという、ロスジェネとして申し分ないスタートを切ったわけだ。

後に弱輩の私が経験した企業のすべては「ブラック企業」であったと知ることになる。今でこそ広く認知された「過労死ライン」。1か月当たりの時間外労働がおよそ80時間を超えたあたりが「過労死ライン」といわれるが、ゆうにその倍を超えた日々。「サービス残業」という認識すらなかったのも、端から残業代という概念が無効だったからだ。

「ブラック企業」も「過労死ライン」もなく、劣悪な労働条件で働き続けた結果、とうとう身体にメスを入れる事態となった。しかし今思えば、それは不幸中の幸いだったといえる。なぜなら、その事態をもって限界とし、そのブラック企業を去るに至ったからだ。弱輩の私は覚った。――こんな働き方は誰が何と言おうと、クソだ――

しかし、ブラック企業との戦いは終わらなかった。縫合の痕を身体にきざみ、その後もしばらく、新たなるブラック企業との戦いが続く。世はブラック企業真っ盛り。金太郎飴のように、社会のどこを切っても黒い液汁が滴り落ちる。

だが、精神の砦を明け渡すような真似はしない。破天荒といわれようと、単弧無頼の独人になろうと、おのれの価値は死守した。

只々、肉体の延命(生活)を企図すれば、それは精神の絶命を承認することになると覚った。美意識すら放擲した、空っぽの、肉塊の私など、明日までも生かしておく価値のないものだと覚った。いっそ詰んで死んだ方がましだという選択基準は、武士にかぎらず精神的であろうとする者一般のものなのだと覚るのである。

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ブラック企業からはじまった社会人1年目。社畜1年目。

企業戦士と社畜

ブラック企業の由って来る所以はどこにあるのか。2001年、ブラック企業入社――爾来20年を超えて何ひとつ変わらない汚行にたいし、酸いも甘いも嚙み分け成長した、今度は私がメスを入れる番だ。

まず、「企業がブラック化するのは日本の振るわない経済事情が原因」というのは一理あるが、穴もある。

1989年、栄養ドリンク「リゲイン」のCMのキャッチフレーズ――24時間戦えますか★1――CMのキャッチなど真に受けるものではないが、ブラックのニオイがすることはたしかだ。

1989年といえば日本はバブル期★2の真っ盛り。「マハラジャ(MAHARAJA)」のようなディスコチェーンに象徴されるように、好景気に浮かれて燥ぎまわる世相であった。

そんな当時から「24時間戦えますか」というブラックな発想はあった。しかし、世間はそれをネガティブに受け止めなかったと記憶している。それは同時期によく使われた「企業戦士」という言葉にたいしても同様である。なぜネガティブ・ワードにならなかったのか。ひとつに、行為にたいする対価との平衡がとられていたからだろう。

「24時間戦えますか」――「はい! リゲイン飲んで、戦います!」――その行為には相応の対価が期待できた。たとえ24時間の戦いのうち8時間分の報酬しか支払われないとしても、意気揚々と志願する人はいたと思われる。なぜならその自己犠牲分が長期的にはプラスにはたらく展望がある。上司の印象を勝ち取り、ライバルと差をつけ、出世プランに加算されるのだという目論見の確度が、今よりはるかに高かっただろう。

さらに遡って、1965年にすでに日本人を「エコノミックアニマル★3」と称する言葉が存在した。つまり日本人の労働における特異性は「ブラック企業」という言葉が生まれた2001年前後にはじまったわけではない。

「企業戦士」も「社畜」も、行為と内容においては大差ない。物は言いよう、である。労働と対価の平衡の破綻――それが転轍点となり、「企業戦士」は「社畜」に、「ブラック」という観念と表現が生まれる。

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バブル期の「躁」、衰退日本の「鬱」。

★1 24時間戦えますか――1988年に発売された栄養ドリンク「リゲイン」のCMのキャッチフレーズ。バリバリと仕事をこなすビジネスマン(企業戦士)をターゲットにした商品。

★2 バブル期――一般的に1986-1991年がバブル期といわれる。

★3 エコノミックアニマル(economic animal)――1965年、パキスタンのブット外相の言葉。後に日本の経済進出を快く思わない言説における日本人への蔑称にもなった。

ヴァルガリティ

他方、「対価」という言葉の語義を敷衍すれば、行為との平衡をとりうるものがかならずしもカネとはかぎらない。労働行為のなかに精神的な対価を見出すこともあるだろう。自己実現や承認欲求等、カネ以外の対価が得られ、その張合いが平衡をとるに値することもある。

「ブラック企業」ではこの「カネ以外の対価」も枯凋している。「ブルシット・ジョブ」という言葉もあるが、その意味はカネにならないことよりも、むしろ労働の意味と価値のなさ、精神的なやりきれなさをいう。

日本の労働現場から斯くも精神的価値が失われたのはなぜか。「ブラック」というあからさまにネガティブな呼称に至ったのは薄給のせいだけではない。そこには精神的な要素としての薄遇、薄志がある。そしてそれは構造に由来する。現代の労働構造そのものに「ブラック化」の原因があるのだ。

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たとえば、「ジャニーズ性加害問題」は象徴的ともいえる。そこにある問題はたしかに問題だが、問題を掩蔽し不活化させる構造の方が規模的にいって大問題である。つまりメディアその他がジャニーズ性加害問題を問題として取り上げない構造だ。これは政・官・民問わず見られる普遍的な構造であり、およそ組織なるものにおいて、もはや自浄作用が機能しないことを象徴する。

煎じ詰めると結局、労働環境の基盤たるステークホルダー★4と原理がヴァルガリティ(卑俗、俗悪、vulgarity)にまみれているのだ。水は低きに流れ、人は易きに流れる、そして、カネは人に沿って流れる。構造として自浄作用ならぬ自穢作用を内蔵してしまっている。たとえるなら、悪性腫瘍によってその姿形をどうにか保つ生命である。「ブラック企業」が単なる経済、労働環境上の問題にとどまらず、人倫に達する問題だと指摘する理由はここにある。

「クレド★5の唱和」で心理の皮相に働きかけようが、「働き方改革」などと形骸の制度に働きかけようが、「起源」にはとどかない。知性や精神、道徳や倫理を軽んじたことへの代償、それが「ブラック化の起源」である。「ブラック企業」というものは、ブラック化している文明、社会の卑近な現象が労働現場に見られるというだけだ。

かつてチェスタトンはいった。神を信じることをやめた結果は、何ものも信じなくなることではない。それは神以外のすべてを信じるようになるということだ――俗神への軽信――俗気に染まり、俗念に流され、俗趣に耽り、精神の核まで俗了する。こうして三島由紀夫がいったとおり、見渡すかぎりの無機的で空っぽの日本、黒業にまみれた世間に零落れたのである。

組織や株主のせいにして言い逃れすることはできない。大多数の世人の消費者としての知的怠慢、無意識的不誠実はステークホルダーのブラック化への加担だ。転じて生産者(労働者)の立場でそのツケが回ってくる。「ブラック企業の起源」は社会の構成員たる一人ひとりの胸の内、頭の内にあるのだ。

★4 ステークホルダー(stakeholder)――企業に利害関係をもつ人や組織。株主・取引先、消費者を含む。

★5 クレド(credo)――ラテン語で「信条」を意味する。企業の従業員が心がけるべき信条・行動指針。

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