ブルシット・ジョブとブルシット化する世界|秋影書房

ブルシット・ジョブと
ブルシット化する世界

ブルシット・ジョブだけではない。ブルシットな学業、ブルシットな家族、ブルシットな街、ブルシットな文芸、ブルシットな人生……ブルシット化する世界にどう向き合うか。

浮世はいつでもブルシット

ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか(酒井 隆史、講談社現代新書、2021年)』という本に触れる。「そう、まったく、ブルシット(アホらしい、クソみたいな、bullshit)なんだよ」という感興から敷衍して、「ブルシット」と題する。

クソみたいな仕事ですよ――吐き捨てるように、その女性は言った。以前、勤めていたオフィスビルの共用の休憩場、よその会社の女性と雑談した時のことだ。おのれの仕事を「クソみたい」とは、これまた穏やかでない。しかし「クソ」というぐらいだから、ほじくるのはやめた。彼女がおのれの尊厳の瀬戸際で、日々闘っているのは分かった。

私もずいぶんと「ブルシット・ジョブ」をしてきたものだ。仕事だけじゃない。そも浮世はいつでも「ブルシット」にまみれている。いうなれば、浮世という野太いはらわたの中に生きる菌のひとつのようなものでもある、人というものは、という視座もある。

ブルシットな仕事が人の心を腐らせる

御社の仕事に魅力を感じ云々――採用面接などで念仏のように唱えられるわけだが、「ブルシット」である。食っていくのにカネがいる、そのために何か仕事をしなければならないのだが、少しでもマシな条件ということで御社に行き着いた――そう言わない、言えない、言わせないのが、そも「ブルシット」である。

「ブルシット・ジョブ」には、本当はどうでもいい仕事を意味があるように見せかける「演技や欺き」があるという。そのとおり、それは採用面接から始まっている。 そして、その無意味さに気付きつつ、自欺(自己欺瞞)によってその無意味さを糊塗する心のはたらき、あるいは集団的心理、環境。これらが心を蝕む。自欺という負波動に曝露しつづけるのは、いわば精神的自傷行為だからだ。

ギリシア神話に「シシュフォスの岩」というのがある。シシュフォスはゼウスの怒りに触れ、頂上に着くや転がり落ちる岩を何度でも山の上に押し上げる苦役に服すことになった。自己の行為が何らかの肯定的・建設的意味をもたなければ、人は苦痛を感じる生き物なのだ。

カネを得るためにはとにかく何らかの「労働」なるものを先に支出しなければならない。それが他者のガンや不妊を昂進したり、自然環境を破壊したり、おのれの尊厳を毀損するような内容であってもだ。「ブルシット」である。

労働から得るカネを「我慢料」などというが、労働が「ブルシット」と不可分である性質を人は暗黙裡に見据えているのである。にもかかわらず、リクルートスーツに身を固め、神罰のような苦役に服さなければならない。これを「ブルシット」と言わずして何と言う。

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御社の仕事にやりがいと未来を感じた結果にしては……
気のせいだろうか?

ブルシットな状況はどこからくるのか

「ブルシット」な状況は主として「カネとその構造」からくる。構造上の調整弁、あるいは過渡的方便として「ブルシット」、すなわち「無意味さ」が必然的に発生しているのである。

労働(力)を支出して得る「カネ」がなければ、文明社会というプラットフォームに参加できない。 しかし、ここで問題が発生する。人類の活動と不可分の技術の進展、すなわち「イノベーション(革新)」なるものが労働節約的技術革新であることだ。つまり人間の労働の必要性、意味と価値は技術の進展につれ下落する。

自然界という構造では、下層が生み出す養分が全体にとって欠かせない基底なのだが、「カネとその構造」では異なる。そこでは養分は「カネ」という「実質なき仮想」であるがゆえに、分配の平衡を無視できる。そしてそれに実質の価値が従う。この不自然により、「カネとその構造」のピラミッドでは下層の価値は際限なく流失し、ブルシット、あるいはブラック化する。

いわば文明社会体というもののあらゆる能力と価値が、上層とそのための機関である寡占体(企業)に収斂されていく。その現象の一側面が「格差」である。この「格差」は、究極的には下層の不用、つまり下層全体を「ブルシット」と規定するだろう。その過渡期として今、まずは労働が「ブルシット化」しているのである。

ベーシックインカムのような制度が声高に叫ばれはじめたのは、下層の労働(力)がもはや換金価値すらないほどに下落したということだ。これは構造のジレンマである。構造の本音では、下層の価値は低い。だが、何分それが人間であるから、おいそれと(システムごと)滅却するわけにはいかない。とりあえずの換金儀礼として、労働のふりをしてもらおうというわけだ。ブルシットジョブとはフリしてるジョブである。そんな仕事に大した中身があるはずがない。

このような過渡的方便としての「無意味さ」が人間も環境も蝕んでいる。誰も得をしない、まさに「ブルシット」な状況だ。そのような「ブルシットな方便」の上でかろうじて、つま先立ちで、なんとかもちこたえているという、情けないありさま。これが現代の文明社会の実態である。

今や労働は構造がその下層にあたえる意義ですらなくなりつつある。その制度が根本的にぐらついている。つまり、下層不用論がイズムにまで達したのが株主資本主義であり、現在これから向かおうとしている未来である。今は「ブルシット・ジョブ」だが、やがて下層民そのものが「ブルシット・マン」になるだろう。すでにそうなりつつある。

むろん、これは「ブルシット化」の立体的・重層的原因の一側面にすぎない。だが、「カネとその構造」に組み込まれた「人間とカネの関係のこじれ」が「ブルシット化」の淵源にあることは明白である。

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あらゆるものがブルシット化していく

巨きな流れを俯瞰すれば一目瞭然、このままいけば、あらゆるものがブルシット化していくだろう。クソみたいな労働のみならず、クソみたいな学業、クソみたいな家族、クソみたいな街、クソみたいな文芸、クソみたいな人生……

ブルシットな重力圏から逃れる方法があるとすれば、これはもう死をも見据えた不羈独立の精神力しかない。これは精神論ではなく論理である。価値の規範の再構築という難業に挑まねばならない。そして、「労働」そのものを自己承認の免罪符にするような「ブルシットな認識」を改めるべきだろう。

ベーシックインカムや次世代的ユートピア主義への期待は安易といわざるをえない。それは自らを「ブルシット・マン」と認定し、全体主義的な価値喪失の次元に自己意識を埋葬することにほかならない。上層は慈善事業部ではないし、構造は慈恵の子宮でもない。

メインストリームはブルシットだ。アンダーグラウンド(非主流、実験的)に可能性がある。そしてそこに面白味は、ある。現に私はそう感じている。

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ブルシット・マンとして生存時間の長さのみを人生の目標にするのか、あるいは一か八かでも尊厳の道を行くか。

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