消えたニュー・ノーマル

消えたニュー・ノーマル

コロナ禍で脚光を浴びた「ニュー・ノーマル」という概念。新しい常態、標準を目指せと声高に叫んで船出するや否や、船影は消えた。消えた原因の中核は現在のシステム基盤マトリックスにある。「ニュー・ノーマル」より「リターン・トゥ・(アブ)ノーマル」。不快な近接を強いられる満員電車、一時は回復した自然環境をまた元のように汚すこと。(アブ)ノーマルの再開だ。喉元過ぎれば熱さを忘れる懲りない文明はもはや嘲笑わらうしかない。

ニュー・ノーマル、どこいった

私の記憶が正しければ、2020年は「ニュー・ノーマル★1」というワードが脚光を浴びた。そこかしこの見出しや文章に使われ、「ニュー・ノーマル、待ったなし」といわんばかりの喧伝ぶりだった。しかし、2021年も暮れにさしかかった今、「ニュー・ノーマル、どこいった」である。

新型コロナウイルス(以下コロナ禍)とシンクロした「ニュー・ノーマル」は、コロナ禍へのマンネリ感とともに消沈した。若い恋人同士が情愛の頂点でとり決めたルールが、半年ともたず反故になるのと同じである。ニュー・ノーマル、あっけない幕引きであった――

――と終わりにせず、この現象をもう少し掘り下げてみよう。コロナ禍に背中を押され、リハーサルもなしに舞台に立たされたニュー・ノーマル。いかんせん粗削りの概念ではあったが、筋はどうしてなかなかよかった。コロナ禍にかこつけて、ニュー・ノーマルを多少むりやりにでもねじ込めば、すこしはましになる世間の局面は山ほどあったのだ。

たとえば、鉄道事業者と痴漢の常習犯以外だれも得をしない満員電車の解消。飛沫がとびまくる唱和を強制するブラック企業の因習の是正。いじめが横行し手がつけられない学舎におけるリモートという救済バイパス。ニュー・ノーマルが「ベター(better)」となる局面はごまんとあることだろう。

私自身、IT系の仕事をしてきて、積年の不満ともいうべきものがある。それは「IT」を柱とする職種であるにもかかわらず、満員電車に乗って会社に勤めるという非合理性。その裏にあるのは滅私奉公のポーズ(見せかけの態度)という教義ドグマめいたものである。

台風の日には傘を骨だけにし、水に弱いデバイスをまもりながら、ずぶ濡れになって出社。そこにまつわるあらゆる「エネルギーの無駄」を全国的になくせば、原発5、6基分のエネルギーは捻出できるだろう(?)。

1969年、アメリカのペンタゴン(アメリカ国防総省)がインターネット(厳密にはその原型となるARPANET)を完成。この開放系・分散系ネットワーク技術の目的はなにか。それは情報へのアクセス能力をひとつのアドレスに集中させず、多様な回路でアクセス可能とする、いわば情報網強靭化である。

それから半世紀も経った今、こんぴゅーたーといんたーねっとを使うために、父ちゃん、母ちゃん、カイシャへ行くという。地方に仕事がないからおら東京さいぐだという旧態依然の状況然り、ニュー・ノーマルどころではない。ノーマルの定義すら疑わしい日本の労働観念に、ニュー・ノーマルは無謀だったのだ。

★1 ニュー・ノーマル(new normal)――金融上の不確実性の意味もあるが、拙論では「コロナ禍によって新たにもとめられることとなった基準・標準」のこととする。

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感染者も恐怖も、事物は株価チャートのような山を繰り返す。諸行無常のパターン(類型)だ。

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2020年代の日本の民間の情報観念は、1969年のARPANETより遅れている。

コロナ禍で再確認――
文明という名のイナーシャ

2020年の段階では「ニュー・ノーマル」という新たな基準・標準に一縷の期待があった。しかし、たった1年後の2021年には真逆の結論にいたる。それは「文明という名のイナーシャ(慣性)」の絶望的な不可逆性の再確認である。

ニュー・ノーマルとはパンデミックという状況を受け入れ、忍耐ではなく状況に合わせた新たな標準状態を構築することだった。しかし、それは土台無理な話だった。なぜなら、都市部を象徴とする現在の「モデル」でしか「システム」が機能しないからだ。逆説的にいえば、互換性のきわめて乏しいシステムであるからこそ「モデル」を推し進める「モダニズム」なのである。

ニュー・ノーマルには一時的なものという潜在的な前提があったようだ。そこに盤踞した観念は嵐が過ぎ去るまでの忍耐である。長引く嵐に人々は忍耐にも困憊し、ニュー・ノーマルはじりじりと後退する。モダニズムの基盤マトリックス上でしか生きられないシステムの奴隷の、これが民意であり、やむにやまれぬ結論である。

そして、ニュー・ノーマルを決定的に打切りにした象徴のひとつが「ワン」だろう。忍耐に終止符を打つ救世主として最大級のスポットを浴びるワンへの喝采は、ニュー・ノーマル不要論の旗幟である。

制限と不都合を強いつつも思考停止の安堵は約束するイナーシャなしに、もはや世人は生きられないことをワンは証明した。イナーシャをとりもどし、システムをより強化するのにもっとも適した手段として、ワンがニュー・ノーマルとなったのだ。

冷徹なものの見方をすれば、コロナ禍は巨大な政治的・経済的機会だったといえる。パンデミックの規模はそのまま政治的・経済的機会の規模となった。

ンは、人類の健康を祈念して――という政治的・経済的機会からの惹句を鵜呑みにするのは、マッカーサーがいった12歳以下だと信じたいところだが、寡占体への盲従もまたイナーシャである。

善意というものは、えてして見かけ通りのものではなく、人類はふつう表向きの理由ほど立派ではない、利己的な動機で行動する――「もし地獄への道が善意で舗装されているとすれば、その理由の一つは、大抵の人が選ぶのがまさにそのような道だからだ」
──
スティーブン・ガラード・ポスト、ウィキペディア
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提案はワン一択。口先では「多様性」を礼賛しつつ、その実、硬直し、互換性の欠片もない拙劣なシステム(モダニズム)の本性である。

リターン・トゥ・(アブ)ノーマル

日頃、あれほど世の常態の不条理をあげつらっていた徒輩も「ニュー・ノーマル」の確立に踏み切らなかった。コロナ禍という全体の動揺は「ニュー・ノーマル」を嚆矢とし、忌むべき常態を討つ最大級の好機であったにもかかわらず。

「ニュー・ノーマル」の敗北劇に、令和の「大艦巨砲主義★2」をみる。つづめて言えば「わかっちゃいるけどやめられない」というやつだ。

日本は先の大戦で、すでに時代、技術の流れは空を制す者が戦場を制すというドクトリンにシフトしていたことを知っていた。しかし「大艦巨砲主義」にこだわった。その理由はさまざまだが、とりわけ源田実大佐の言葉に現在のニュー・ノーマル敗北に脈々とつづく思想的系譜をみる。

(前略)
源田実大佐は、海軍が大艦巨砲主義から航空へ切り替えられなかったのは組織改革での犠牲を嫌う職業意識の強さが原因だったと指摘する。「大砲がなかったら自分たちは失業するしかない。多分そういうことでしょう。兵術思想を変えるということは、単に兵器の構成を変えるだけでなく、大艦巨砲主義に立って築かれてきた組織を変えるとことになるわけですから。人情に脆くて波風が立つのを嫌う日本人の性格では、なかなか難しいことです」と語っている。
──
「大艦巨砲主義」、ウィキペディア

「わかっちゃいるけどやめられない」――。そういって国家の敗北をも厭わないような「ノーマル」は、たしか「アブノーマル」というのではなかったか。男のロマンでは済まされない。

鉄道事業者と痴漢の常習犯以外だれも得をしない満員電車も「わかっちゃいるけどやめられない」。売上には何ら関係しないブラック企業の唱和の因習も「わかっちゃいるけどやめられない」。いじめの認知件数が年間50万件を超えていても「わかっちゃいるけどやめられない」。

コロナ禍でいったんは狼狽した「アブノーマル」。その間、観光地など、局所的には自然環境の回復もみられたという。しかし、世はニュー・ノーマルではなくリターン・トゥ・(アブ)ノーマルを選んだ。そりゃそうだ。雇用や収入が失われてしまう。カネがいるんだ。しようがない。さあ、また元のように海や大気を汚染し、ハラスメントのデパートと化した社会の再起動だ。「わかっちゃいるけどやめられない」――

スーダラ節』のリリースは1961年。植木等が「わかっちゃいるけどやめられねえ」と歌ったあの日から60年。ポツダム宣言受諾から76年。少しでもましな、ベターな平衡をもたらそうと、さまざまな葛藤、二律背反の関係に、人は真摯に向き合ってきただろうか。多少遠回りでも、ニュー・ノーマルの模索に、はたして誠実だったといえるだろうか。

戦争だろうが感染症災害だろうが小惑星の衝突だろうが、自らを肥え太らせるマッチポンプ機能に取り込むシステム。文明という名のイナーシャ。この先なにが起こっても、結末は毎度おなじである。それはあらゆるモノ・コトを型にはめ、規格化せずにはおかない狭隘なモダニズムの宿命だ。ニュー・ノーマルをみたければ、ここではないどこか、途絶といえるほどソーシャル・ディスタンスされた場――システムの系外に行くよりほかない。

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★2 大艦巨砲主義――艦隊決戦による敵艦隊撃滅のため大口径の主砲を搭載し重装甲の艦体を持つ戦艦を中心とする艦隊を指向する海軍軍戦備・建艦政策および戦略思想(ウィキペディア)。

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