メディアがもたらす注意残余
麻薬的メディアがもたらす低下現象と注意残余で失うコストはバカにならないものである。
電磁麻薬
世間の王道を行く麻薬があるといえば、耳を疑うだろうか。おまけに世人の多くが四六時中、その麻薬に気付かず曝露しつづけているとしたら――その麻薬の名を「メディア」という。なかでもとくに質の悪いものはメディアボロス(mediabolos、悪魔的メディア)という造語でよび、私は忌避する。
メディアの中身は多く「CM(コマーシャル・メッセージ)」だ。コマーシャル(商業上の、スポンサー付きの)という意味において、ニュース、ワイドショー、ドラマ、バラエティ、その他多くが広義に「CM」である。
「売らんかな」という発信者の欲望を性急に(15秒、30秒、あるいはYouTubeの6秒のような)濃縮したような「CM」は、もっとも強烈な「電磁麻薬」のひとつといえる。とにかく薄気味悪いのだ。そこに漂う異様な多幸感。クスリでもやっているかのような擬勢。病的な躁状態。じつに気色が悪い。もはや伝達というよりグロである。
受容体(単純な情操)とドラッグ(CM)
テレワーク(リモートワーク)は孤独――とあるCMは言う。じつに気色が悪い。まず、仕事という観念とのズレを感じざるをえない。一体、職場になにをもとめているというのか。コミュニケーションと称した低劣な雑談か? 仕事を装い、意中の人に会うことか? あるいは、オフィスグリコのブドウ糖の過剰摂取が目当てか?
ひ弱で幼稚な感情を理由に働きがわるくなる人間など、私なら絶対に雇わない。職場はカネを稼ぐ現場、それが第一義であろう。その他のことは二の次。きっちり集中して仕事をこなし、スパッとあがる。その後、各人、自在に楽しめばよい。職場は放課後の教室ではない。それが私の職場観だ。
テレワークは孤独――その文言ではじめるCMは、その「さびしさ」を需要とみてさらに焚き付け、後押しする。「仕事中にさびしいなどと、集中していないからこそ感じるものだ」という私の論など何処吹く風だ。
そのさびしさにはコレとばかりに商品名を連呼し、にじり寄る。そして驚くべきことに、けっこうな数の世人がいとも簡単に落ちる。「さびしさの紛らわし」に思いがけない意識のコストを割き、その注意残余★1が祟ってさらに能率が低下する。
事の起こりは「単純な情操」にある。その受容体(単純な情操)にドラッグ(CM)が見事に結合する。「単純な情操」がドラッグの恰好の的であることは、現物のドラッグにおいてもデジタルなドラッグ「電磁麻薬」においても同じである。
ドゥープ(dope)な世間
「〇〇のCM、見たァ? あれって超良くない? てかもう買っちゃった!」――巷間で途切れることのないこのような騒擾は、私に言わせればクスリをキメたドゥープ(麻薬常用者、dope)の痴態と大差ない。そんな会話の流れが否応なくこちらに向くのが職場なものだから、テレワーク推奨派にならざるをえない。
とどのつまりCMにほいほいつられる人間は、他人の容喙をだらしなくゆるす人間である。集中力と批判精神、理性がよわい傾向がある軽佻浮薄な人物である確率が高いため、あまり懇意にしないほうがいい。ここまで言うのは妥当を欠くかもしれないが、その「単純な情操」を売人に刺激され、現物のクスリに手を出すのも時間の問題ではなかろうか。
ちなみにネットやテレビの広告費はおよそ2兆円規模。高解像度だ何だと技術的な関心を煽り立ててはいるが、スクリーンはコマーシャリズムの看板としての性格がつよい。日がな一日、看板を眺める行為をどう考えるのか。
一度、一日のうち自らがどれぐらい「電磁麻薬」に曝露しているか、計算してみるといい。またしてもここまで言うのは妥当を欠くかもしれないが、その間は阿片窟に引きこもり、半睡状態でぼうっとしているのとそう変わらない。そう認識を新たにし、改める。それは早速ただ今から人生をすこしでも明晰にする、小さくとも意義のある実践ではなかろうか。
余談だが、テレワーク否定の理由にもし「さびしさ」を挙げるようなら、そんな浮ついた主張は却下していいだろう。そういうのは「淋病(淋菌感染症)」とは別の意味の淋病(淋しさへの偏僻)であり、集中力に難がある。むしろ、オフィスの椅子が安物なばかりに尻が暗紫色に鬱血し痛むとか、隣席の人物が労災級のワキガで仕事にならない――そういう生々しい非生産的状況にテレワークは有効であると、テレワーク推奨派の私は言う。