都合のいい情報

都合のいい情報
情報バイアスと情報統制、情報リテラシー

高度情報化社会といわれて久しいが、現今のありさまをみれば「高度」など空語にひとしい。巷間にあふれる情報は大方「都合のいい情報」「都合のいいエビデンス」だ。当然そうなる。情報はアピールの道具なのだから。しかし、情報はアピールを通り越し、いよいよ傲慢の域に達する。そんな傲慢な情報と向き合うには、個人が情報にたいするポリシーやガイドラインをもち、検閲する必要があるだろう。

情報とはかなりの割合で都合のいい情報である

子供の頃、カブトムシを捕りに夏の夜の雑木林へ祖父と行った。その夜は思いがけないほどの大猟で、カブトムシの群がる樹液から樹液へ、興奮して夜の林を歩きまわった。そこへ、やはりカブトムシ目当ての一団が林に入ってきた。すると、祖父はその一団に近づき、こんなことを言った。

「今そこで、大きなマムシを見かけましたよ。私らも引き上げるところです」

聞いて一瞬にして冷める一団の気色を傍で感じ、同時に「なるほど」と察した。祖父の言ったことは「嘘」だ。しかしその「嘘」は私にはとても都合のいいものだ。そう、マムシはいたことにしよう。そうすれば邪魔されず、カブトムシを独り占めできる――。

高度情報化社会など、一皮剥けばじつにスノッブ(えせ紳士、snob)なものだ。手間暇をかけカネをかけ、熱心に発信されるマスメディアの「情報」の大半は、あの夏の夜の祖父の嘘とおおむね同じ。しかも、それらの「嘘」には孫を慮るような心寄せなど毫もない。カネのための「嘘」がほとんどである。

支配欲動の構造に従い、「マス(世人)」を「恣意的な帰結」へと誘導するのが「メディア」の主たる役割だ。その際、「マス」たちから信頼され人気のある「アイコン、権威(著名人・知識人等)」をいわばサクラとして使う。方法として、一般的に情報(暗示)、技術、制度、流行などがある。

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牧羊犬に煽られたの群れは、人気者の羊の判断を仰ぎ、ついていく。たちは気付いていないようだが、人気者の羊牧羊犬は構造的にぐるである。こうしてたちはまとめて毛を刈り取られる。しかし、従順なたちが憎むのはせいぜいバリカンであって、その策略にまで、牧場主にまで考えはおよばない。
※「B層」というのはバリカン(Bariquand)の「B」ともいえよう
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を常に「群れ」に接続する「技術」によって、純然たる個の時間と空間、意思や目的はほぼ消失している。あたかも「群れ」を代表するかのような人気者の羊が流行をまとい嚮導し、牧羊犬が吠えて発破をかける。従順なはこの挟撃のなかで一生を終える。

情報はアピールである

結局、真実は藪の中、というのが高度になった情報化社会の行き着く果てだ。高度情報化社会では、情報の信憑性のためのエビデンス(証拠・根拠)をいちいち示せとかまびすしい。しかし、示されるエビデンスの信憑性はどうなのか。著名人だとか教授だとかが、出資者や社会構造の影響を受けないというエビデンスはあるのか。

人というものは少しでも損をしたくない、常住坐臥、得をしたい生き物だ。つまり「利」が「真」にもっともちかいというのが世の通り相場である。なにをたよりに情報に向き合えばいいのかといえば、強いていえば「利」の所在だろう。犯罪者が自ら示すエビデンスは、罪を免れるためのものである。

テレビやネットで「これが証拠だ」といわんばかりのデータやグラフが描かれたフリップ(図示カード)を演者が用いる。だが、それがどうしたというのだ。そんなものを紙芝居を見るガキのように鵜呑みにしてしまう大人は、もうしわけないがといわざるをえない。

情報はアピールであるというのはビジネスの基本、大人の常識だ。たとえば、男性が「高年収」をアピールし「高慢ちき」であることは隠す。あるいは、女性が「バスト90センチ」だけをアピールし「ウエストも90センチ」であることは明かさない。自分に有利なプレゼンテーションの資料を作る基本は「欠点の矮小化」と「美点の巨大化」である。

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「我が社の商品情報をプレスリリースする」とは、つまり「我が社に都合のいい情報をアピールする」ということである。

物は言いようの情報の世界

情報の世界は常に詐偽と紙一重だ。私がクソ真面目にビジネスマンをしていた頃、私の作る資料はすこぶる評判がよかった。それははなから「アピール」に終始したからだろう。嘘も真も、正も邪も、視点ひとつ、物は言いようでどうとでもなるものである。

では、情報(今回はデータ、グラフの類)操作について、初歩中の初歩といえる子供騙しのテクニックを紹介する。

次のようなグラフ(この例においては何に関するものでもいい。株価、生存率等)を提示し、こう言う者がいるとする。

「直近のデータを見ても明らかなように、右肩上がりの望ましいラインを描いている。オレノミクスの正しさの証左でしょう」

こんなちゃちなグラフでも、意外にもけっこうな数の人が落ちるものである。そしてこれを評価する。

このグラフにツッコミを入れていこう。まず横軸の期間において(2018から2019の線の間隔から)対象期間が2017年9月頃から2019年9月頃である根拠は何か。この期間外のデータには価値がないのか、という疑問。

そこで、先のグラフにパラメーターを足して、期間を拡張してみる。

期間を12年間に拡げてみれば、乱高下しながら全体としては頂点から右肩下がり、下降曲線だったことが分かる。できるだけ近い期間で右肩上がりの都合のいいラインを恣意的にトリミング(黄色い部分以外を切り落とす)していたのだ。

バイアスのかかったデータ、グラフによくある、ちゃちな小細工だ。木を見て森を見ずならぬ木だけ見せて森は見せず。履歴書に「○年○月退職」とだけ書いて、理由が「酒に酔ってセクハラしたことによる」とは書かないのと似たようなものである。

次に、縦軸が「0.1」きざみであることは、取り扱うデータにおいてそれが適正なのか、という疑問。

たとえば、1.0mgで致死量になるような毒物なら小数以下の扱いは適正だろう。そうではなく、「0.1」ではまるで現実味のない、無意味な対象もある。たとえば、体脂肪率や血圧のようなものだろうか。

単位の桁を恣意的に設定し、大袈裟にみせたり矮小化させたりするのもよくある小細工だ。先のグラフの縦軸の桁は、じつは「0.1」では意味がないにひとしく、10倍の「1」きざみが適正であり実際的だったとしよう。桁を適正に修正すると、以下のようになった。

ずいぶんと印象がちがう。グラフ全体が誇張されていたのは明らかだ。
「君さ、針小棒大に褒めそやすのは、君の奥さんが髪型を変えた時ぐらいにしておきなさい」
と優しく諭してあげようじゃないか。

その他、こんなものもある。次のグラフを見ると、対象の期間を通してプラス(+)の値を示している。たとえばこれをあるものの生産規模としよう。

これに別のパラメーターを加えるとどうか(赤い線)。

「緑の線」に明らかな対称となる「赤い線」が表れた。たとえばこれが環境破壊により損なわれる自然だとなれば、生産活動に別の視座が加わることだろう。見せたいもののみを見せる、まさにアピールのための情報だったことが分かる。

今では少し手間暇をかければ、グラフ化できる技術があふれている。パラメーター(必要な情報、引数)になりそうなものも、書籍からネットまで、探せば手に入るものもある。それらを使って示されたデータに疑義のメスを入れることは、そんなに難しいことではない。

情報はデザイン物

テレビやネットといったメディアは情報デザイン業である。「デザイン」とは「目的」をもった意匠計画のこと。メディアにはかならず「目的」があるものだ。

――事実ありのままの数字を使えばいい。嘘をつく必要などない。文脈を操作し、見せ方を工夫する。人をこちらの意図する「イメージ」に着地させる、それが「目的」だ。自らの「イメージ」の偏頗を見破ることは、噓を見破ることよりはるかに難しい。自らの観念体系の歪みを自己批判できる人間などそうはいない、データの真偽をとやかくいうものは腐るほどいるが――私がビジネスでグラフを作るときのモットーだ。こんなことは常識であるが。

「デザインとはボン・キュッ・ボンである」――これは20年以上、デザインというものに職業者としてかかわってきた私のデザインにおけるプリンシプルのひとつだ。「目的」のために、出すところはとことん出して、引っ込めるところはとことん引っ込める。情報デザインにおいても原理はおなじである。

問題は、このようなデザイン物を事実、真実として鵜呑みにしてしまう世間だ。「おいおい、噛めよ」といいたい。そんな食い方してると腹こわすぞ、と。袋に入った飴を剥かずにそのまま飲み下すような狂気の沙汰である。

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データは「事実(素材)」であって、それらを目的にもとづき編集したものが「情報」である。「情報」としてデザインされた以上、そこにはかならず編集者の意図が入る余地がある。

都合のいい情報に覆われる情報惑星、地球

情報とカネの流れは同期する。カネの流れが企業のM&A等でより極化していくことに同期して、情報も極化していくとみていい。つまり、情報はさらに組織、寡占体のCM(コマーシャル・メッセージ)となっていくだろう。

支配欲動とコマーシャリズムにとって、より都合のいい情報プラットフォームに情報の大部分が吸収される。今や極論ではなく、プラットフォーム上での情報は、どこかの組織に属する「セールストーク」でなければならなくなる。それ以外の情報は価値を認められなくなり、表現の舞台にすら上がることはできなくなる。「活字は死んだ」というレベルではなく、もはや「情報は死んだ」というレベルである。

地球規模のファイアーウォール★1。一方的な価値基準により、都合のわるい、価値を認められない情報は、もはやウイルス、マルウェア扱いだ。人間の知性、表現は冷たい壁で仕切られた。

私の辞書ではすでに「高度情報化社会」を「地球規模でフィルタリングされた画一的知識社会」とあらためた。つまり知識や情報の旨みが失われた退屈な社会である。「これからは情報の時代だ」などと、平成の頃ならまだ幾分、希望的観測も描けたものだ。しかしこれからはちがう。否、もうすでにちがう。

各人が情報にたいするポリシーやガイドラインをもち、個人の側から情報を検閲する時代だ。これからの「情報」にたいしてはそのように向き合う必要があるだろう。傲慢な情報はマスにたいして責任感などもたない。羊の群れを誘導するため、牧羊犬のごとくただ吠えるだけである。

今にして思えば、あの夏の夜、祖父のついた嘘など、まだ品があったほうだ。「高度な偽情報」より「孫を慮る嘘」のほうが情報としてはるかに上等であり真実がある、と私は思う。

★1 ファイアーウォール――コンピュータネットワークにおいて、ネットワークの結節点となる場所に設けて、コンピュータセキュリティの保護、その他の目的のため、通過させてはいけない通信を阻止するシステムを指す。(ウィキペディア)

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「情報」が傲慢になればなるほど、「情報」にたいする私の純粋な興味・関心は消えていく。今では「情報」は「自衛のために知るべきこと」という定義にちかい。そういえば、「情報」という言葉の語源は1876年(明治9年)の「敵告」だといわれている。皮肉なものだ。

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