ゲリラ政治|政治の定義と本性

ゲリラ政治
政治の定義と本性

政治もまたメディアのまやかしの舞台の一演者にすぎない。政治の本性において、もはや政治は主体ではない。メディアクラシーのまやかしと政治の屍を越えてゆけ。

「政治」より「権威」がお好き

「政治」はつまらない、興味がわかないと感じられるのも無理はない。芝居掛かった物言い、透けて見える破廉恥なカネと欲望の流れ、胡散臭さを通り越して幼稚なことこの上ない。「政治」のありさまは旧態依然、進歩も発展もみられない。

(1)まつりごと。
(2)(politics; goverment)人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。主として国家の統治作用を指すが(後略)
──
新村出(著、編集)、『広辞苑 第六版』岩波書店、2008年

これで「政治」に興味がわくわけがない。

日本人は「政治」に無関心だと言われる。しかし「政治の決断」には従順だ。これはどういうことかといえば、「政治」というより日本的「おかみOkami」のニュアンス、「権威」に無闇に従順なのだ。

週刊誌が政治家の不義を叩けば雷同するくせに、「インボイス制度をはじめる」という「おかみ」の号令には従順だ。コトの正否を考えることなく「当社の会計ソフトはインボイス対応!」となる。これがもし映画『PLAN 75★1』のような生死にかかわる制度であっても、盲目的従順でぬけぬけとやるだろう。政治家を蔑視することはあっても、「おかみ」という抽象は蔑視の対象にならない。

この国では「政治=おかみ」ではない。「政治」と「おかみ」は別物である。コメディアンもスポーツ選手も「権威」を得れば「おかみ」になれる。多くの日本人の関心は「権威」にあり「政治」にはない。また、この「権威」は正当な根拠も手続きも必要としない。「権威」は水平な市民の地平からメディアという推力によって中吊り広告の高さに浮揚したものに自動的に付与される。いわば「幻想的権威」である。

「人気≒権威」の変換装置でもあるメディアが正当な根拠の定かならぬものに位階をあたえる。デモクラシーを自負する日本人だが、その主義、政体は眉唾物だ。「権威」のすべてをメディアに信託、デモクラシーの定義(イメージ)すらもメディアが与えるとなれば、先ず以てメディアクラシーである。

日本の「政治」と「世間」の不均衡的均衡は、この「政治の本質的不在」からくる。「政治」に代わる「幻想的権威主義」とでもいうべきものが世間で上すべりしつづけるおかげで、依法官僚制★2の皮をかぶった腐敗せる家産官僚制★3的支配構造が安定するのである。

★1 『PLAN 75』――早川千絵監督。75歳以上が自らの生死を選択できる「プラン75」という架空の制度を媒介に、揺れ動く人間を描いた映画。ハピネットファントム・スタジオ、2022年。

★2 依法官僚制――マックス・ウェーバーが定義した官僚制の分類概念。役人は国民と国家に奉仕すると定められた法律に従って働くべきだとする。

★3 家産官僚制――マックス・ウェーバーが定義した官僚制の分類概念。国家を私有財産化するような支配者の下の官僚制のこと。

政治の定義

私は「政治」というものをシンプルに定義する。したがって「政治」というものに関心があり、「権威」は論法として利用することは多い割に関心はない。そんな私の「政治」の定義はカール・シュミット★4のそれにちかい。

つまり「政治」とは「敵か味方か中立かの分類」である。対象はヒトにかぎらず、モノが、コトが、あらゆる対象が、害するものか、益するものか、そのどちらでもないか。その価値の分類とそれにまつわる実践、これを「政治」とよぶ。故にあらゆる物事に「政治」の観点が入りうる。

そのような分類の観念は常在、かつ相対的で流動的であるため、自ずと関心は保たれる。めくるめく変わる天気にたいする関心と変わらない。

★4 カール・シュミット――ドイツの思想家・哲学者・法学者・政治学者(1888-1985)。

「敵アレルギー」の日本人

しかしそのような定義は世間の政治離れをますます加速させるかもしれない。なぜなら日本人の「敵アレルギー」は「花粉アレルギー」と並ぶ多さだ。

海に囲まれ逃げ場のない列島、欲求不満は自己完結させる必要がある――その精神的土台は令和の今も変わりはしない。ガラパゴス的進化を遂げたのはケータイよりもむしろ日本人自身だ。

「あいつはあんたの敵じゃないか」などと言えば「しっ! そんな大きな声で!」――「敵」という言葉に白刃を見たかのごとく戦慄する。私が列島の真綿文化とよぶものだ。

たしかに、敵はないにこしたことはない。しかし、一般的に人生なるものは危機をはらむ宿命にある。ノーミス、ノーダメージを目指す気持ちは分かるが、ビデオゲームより複雑な難度の人生でそこに執着するというのは、それこそ無理ゲ―★5であろう。リアリティーに欠く。

「敵アレルギー」の日本でとくに発達したと思われる真綿に針を包むという考え。だが、この言葉の意味は正しく理解されているだろうか。辞書を引けば表面はやさしいが、心の奥に意地の悪さをかくしているたとえとある。そう、日本人は敵に戦慄するのではなく、敵視されることに異様な恐れを感じる民族のようだ。

(敵であることがばれないように)――その姑息な「心理」はグローバル化した国家・民族混淆の世界では大して有効に機能しない。いっそ「ステルス」という愚直な「ばれない技術」に転化したほうがまだ実益があるだろう。

★5 無理ゲー ――難易度が高く、クリアが無理なゲームのこと。

メディアクラシーのまやかしと
政治の屍を越えてゆけ

「政治」とは「敵か味方か中立かの分類」だと書いたが、その分類もメディア頼みなのがメディアクラシーである。政治もまたメディアのまやかしの舞台の一演者にすぎない。「敵か味方か中立かの分類」という政治の本性において、もはや政治は主体ではない。

全体主義による減法混色の黒一色、あるいは加法混色の白一色に自己を投身することに絶望的な気分になるのなら――個人知を練り上げ、無機的な世界を独往する過酷への覚悟が必要だ。家畜が柵を失い野に面する過酷を覚悟しなければならない。

家畜の安寧、虚偽の繁栄、死せる餓狼の自由を(Linked Horizon、『紅蓮の弓矢』)――。もうフィクションの主題歌の歌詞では済まない。

クロアリとヒアリを100匹集めて瓶に入れても何も起こらない。
しかし、瓶を手にとり激しく振ってテーブルの上に放置すると、アリ同士が殺し合いを始める。
ヒアリはクロアリが敵だと信じ、クロアリはヒアリが敵だと信じているが、本当の敵は瓶を振った人間である。
社会でも同じことが言える。
男性 対 女性
黒人 対 白人
信仰 対 科学
若者 対 老人
など...
互いに争う前に、私たちは自問しなければならない。
誰が瓶を振ったのか?
──
デイビッド・アッテンボロー

敵を正しく認識できない動物は攻め滅ぼされるだろう。
味方を正しく認識できない動物は孤立に行詰り、これも滅びるだろう。
中立を正しく認識できない動物は資源と可能性とが枯渇し、やはり滅びるだろう。

政治の本性は追い詰められた個人の砦でゲリラとなる。 そして、政治的な記事を書くのもここらで休もうと思う。 個人的となった「政治」の話は目を見て肉声を交わせる輩に限ることとし、 このような一般公開の場からは退こう。 もとより詮無き話題であったし、もはや世間にそれを発しても完全に無駄である。

各個、健闘を祈る。

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