人はずっと原始人のまま

人はずっと原始人のまま

現代には進化という言葉があふれている。世間の中身がその言葉の数どおりなら、道行く人の顔はもう少し溌剌としていいはずだが、どうにもそうは見えない。なるほど、それは「進化」であって進化ではないからだ。毎年、毎月のようなかまびすしい「進化」と、人間にとっての本質的な進化――進化を腑分けしてみよう。

人はずっと原始人のまま

はじめに、拙論における進化という言葉の少しばかり限定的な定義を説明しておく。鉤括弧(「」)の「進化」は「流行のイメージ(後段で詳述する)」とする。これにたいし、「より良き意味と価値への前進」の意の進化はこのようにギュメ(〈〉)でくくることとする。その上で、拙論の最初に「人は然う然う進化などできない」と定言的にいっておく。

巷間は「進化」という言葉であふれているが、至極ごもっともだ。現今の主流たる「技術主義テクノロジズム」の超過気味の体系的標準の刷新と、「人気主義ポピュラリズム」のもはや価値判断すら伴わない流行の慣性。これらに適応せよとの号令として「進化」が遍く唱えられる。だからスマホのような機械装置も個人も組織も「進化」は不可避の命題だ。恥も外聞もなくして「進化」を優先させなければならない。

このような現象はなにも現代にかぎったものではない。原始時代から人間の確固たる元型アーキタイプのうちに「進化」こそが優先事としてある。

人は原始時代からその元型に忠実に、進化ではなく「進化」に牽引され、「進化」に腐心しつづけている。「技術」の主たる目的は常に「進化」の数量的拡大(効率化、大量化等)活動だ。鉄は鍋にもなれば武器にもなるといった喩えのとおり、進化へのはたらきかけは「技術」ではなく「人格」によるものである。

その意味で人はずっと原始人のままだ。人がこれまで進化を遂げたかどうかと問われれば、視座によりけりと返答に窮する。普遍的事実として了解されるものはないだろう。

現代は、本質的には石器時代の「石」を「ICいし」に置き換えた「石器時代3.0」ぐらいの認識で問題ないのではないか。人の世で常に目まぐるしいのは進化ではなく「進化」である。

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石器時代から、一般的な人(ホモ・サピエンス)における生存にもっとも資する行いは「人気取り」、もっとも普遍的資産は「人気」……?

「進化」は経済的現象

ユーザーのクラウド活用を促進、顧客ビジネスのソリューション、グロースをスピーディーに実行。プラットフォームオペレーションからPDCAまでをトータルにサポート。アジャイル・ノーコード、ローコード開発カンパニーとしてナショナルクライアントからも高く評価されています。
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※ITエンジニア系の専門用語あふれる文言例

スティーブ・ジョブズは自分の子にはiPadを触らせなかったという。我が子の脳みそがこんなスノッブな言語野に硬化するのを嫌ってのことかもしれない。冗談はさておき、俗世でいわれる「進化」の中身の大半はこのようなものだ。その他、既存のプログラムの応用にすぎないものにキャラクター(人格、役柄)的な演出を加えただけのものを「AI」とよんでもいいようだ。

これらのことからも垣間見ることができるように、およそ世間であつかわれる「進化」とは「流行、新奇さ」のことだ。その淵源は寡占体、商業主義コマーシャリズムの頂点から下ってくる商材であり、インフラのことであり、「経済」という全体構造の内にある。つまり「進化」とは経済的現象のひとつである。

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お客様、最新のスマホはカメラの画素数が1200万から1320万(当社比10%アップ)へと「進化」しました!

変わらぬ元型、変わらぬイドラ

世界で億単位の人間が常時スマホ片手にSNSに没頭するのは、現代版「市場のイドラ★1」の光景だ。技術によって地球規模となった伝聞は、かつてない量の不正確と不適当が瀰漫びまんする言語空間を生んだ。言語空間の規模は最大化されるも、その意味と価値は希釈され、下落した。

「沢を1kmほど登ったところでヒグマを見た」という原始時代の伝聞には生存に資する価値があった。それが今では見ず知らずの男が「過去に男娼をしていたらしい」などという伝聞に同じ時間を割いている。そしてこれが進化の賜物だという世間の認識、標準へとなり果てた。

人が無意識的であっても生存できるいい世の中になったという意味で進化といえなくもないが、やはり進化というより「進化」だ。「退化」といっても差し支えないと思うが、衆寡敵せず、「進化」で留めておこう。

「市場のイドラ」があるように、「劇場のイドラ」もまたある。テレビ、ネットの類はむろん「劇場」にあたる。しかも厄介なことに、現代では「劇場」を持ち歩く。そして常住坐臥「劇」に被曝する観衆となった大多数は、「劇」のドラマツルギーと自らの主観との境なき消失点にひた走る。

16世紀の哲学者が説いたテンプレートがそのまま使える現今の世態をみるに、おそらくどこまで遡ってもおなじであろう本質をみる。『はじめ人間ギャートルズ(園山俊二、朝日放送、東京ムービー、1974-1976)』で「ゴン」が持っていた石斧はスマホに、腰蓑や骨付き肉はファストファッション、ファストフードに変えるだけ――それが「進化」というものの実際である。

★1 イドラ――(1)偶像。盲目的信仰の対象物。幻像。(2)フランシス・ベーコンは、正しい認識を妨げる先入見をイドラと呼び、種族のイドラ・洞窟のイドラ・市場のイドラ・劇場のイドラの4種類を挙げた。(広辞苑第六版)

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400年後の光景を見ても、フランシス・ベーコン(1561年-1626年)は何ら驚かないだろう。

人は滅ぶまで「進化」し、
〈進化〉は憧れに終わる

人生の戦略における第一条は「人はずっと原始人のまま」――この前提抜きにして戦略もへったくれもない。ミレニアル世代だのZ世代だの、そんなものはアプリケーションでいうVer.1.0.1Ver.1.0.2程度の差でしかない。「進化」にたいする表層の態度のちがいでしかない。世代ですら流行にして、「進化」の多弁のネタにしているだけである。

「進化」は永遠の流行、〈進化〉は永遠の憧れであるとの伝聞のために、歴史(技術史)は存在するのかもしれない。「進化」に過剰な期待をするなかれ――黄ばんだ『ファミリコンピュータ ロボット(任天堂、1985)』がいっている。

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「進化」は街にあふれるも、進化への渇きはおさまらず。

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