フィジカルセンス

フィジカルセンス
感覚と感情、物と人

「断捨離」とはミニマリズムを象徴する、清廉を感じさせる言葉だ。じつは、イノベーショナリズムもある部分において、この「断捨離」に親しい運動をふくむ。それは「モノのデジタル化」である。しかし、ふたつの「断捨離」の意味は大きく異なる。ミニマリズムのそれは物を物として認め、その距離をはかる。一方、イノベーショナリズムのそれは物的であること以上の効率化を目的とする。その運動の仕儀を論じる。

感覚は感情の母

荷を整理していて、かつてのお気に入りの曲が録音された古い「カセットテープ」を見つけた時の心の状態。検索して、難なく目当ての「.mp3」ファイルを見つけた時の心の状態。ニューロン(神経細胞)のはたらきは、どのように違ったものなのだろう。

思い入れのある人やペットを亡くしたり、物を失った心の状態。そのときに「安心してください。それは量子レベルでちゃんと存在していますよ」と言われて、納得できるものだろうか。言葉を頭で処理した後、そういうことじゃあない、とやはり喪失感にしずむことだろう。

それは存在を感じられないからだろう。あの笑顔、あのしぐさ、あのぬくもり、あの重みこそが命という現象の「内容」として感じられたのだ。感じられない粒子や霊となって存在していると言われても、感覚をとおした関係性は消えたのだ。たとえ存在や事実を「頭」で認められはしても、感じられる「実体」のなさに「感覚」はついてこない。

「心」を満たすためには「感覚」を通すことが重要なことのようだ。「粒子や霊になったおかげで、よりユビキタス(遍在)な関係になり、今まで以上に常に存在を感じられる」という人は稀だろう。

「感覚」は「感情」と不可分な関係にある。「感情」は「感覚」という地から生じ、あるいはその地を蹴って高く舞い上がるものではないか。

たとえば、ケージ越しに可愛らしい子犬を見ているのと、抱きかかえるのでは、感覚のちがいがそのまま感情のちがいになる。ぬくもりを感じ、華奢な体をかばうような力加減を体感すると、いわゆる情が移るという、「感情」のボルテージが一段上がる。「感情」という字に「こころ」とルビを振るのは、ある意味そのとおりだ。

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ラベルを見分け、探す行為は目的への最短パスではない。しかし、目的を超える目的との邂逅の可能性をふくむ、過程自体が楽しみになるのだ。

すすむ感情の廃用性萎縮

「カセットテープ」の価値が今、一部で再燃しているという。そう聞いてすぐさま「デジタルデータに比べ扱いが不便なカセットテープがなぜ」という疑問をもつだろうか。だとしたら、それは相当、無意識的に「感情の廃用性萎縮」が進んでいると思われる。

カセットテープは、その物的感覚に好率を感じる人にとっては「効率」で勝る「.mp3」より優れた媒体といえる。カシャカシャした乾いた手触りや音、機序が丸ごと可視化された構造、デザインされたラベル、カセットデッキとのやりとり――。それら物的感覚が「心」に数量的には測れない何かを涵養する。

「物」は今や郷愁ノスタルジアではなく、豊かな「感覚刺激媒体」として復古的な存在価値をもちはじめている。単なる時代錯誤アナクロニズムとみる視座こそが時代錯誤に陥っている。

時代の主流はスクリーンにタッチでダウンロード。ストレージの容量は膨大、検索も瞬間的な作業で高効率であることはたしかだ。しかし人間というもの、「効率」だけが目的なはずがない。

そも、生物、人間なるものに生まれ生きること自体、七面倒臭いことである。「効率」だけを価値として追求するのなら、いっそ生まれてこないという選択をすることになりはしないか。畢竟、生きるということは、七面倒臭いことを引き受けた上で、それを補って余りある価値を見出すしかない。つまり「効率」のみならず――むしろそれ以上に――好率というものは生きるうえでなくてはならない基準なのだ。

当世、「効率」のきわみで目にする光景は好率とはほど遠いものだ。「効率」は「さらなる高効率」を高速で追い求めつづけるオートマティズム(自動症)に陥っている。そして「感情」が涵養される時間も空間も「効率」の名のもとに切り捨てた。感覚・感情の価値を大幅に下落させたのだ。

「モノ」や「コト」をイノベーショナリズムの旗幟のもと、次から次へと電磁的(無感覚的)に換えていくことを良しとする。そこに拓かれる世界は霊的スピリチュアルなものではなく頽廃的デカダンスだろうことは、すでにその傾向線の途上である現在にみてとれる。

結果、既にどうなったか。恋愛ひとつすら満足にできない、無駄と思われることのなかにある滋味ひとつ満足に味わえない、味気ない効率人だらけである。彼らは感情が抜けてできた退屈の大穴に、飽く度にニューネス(新奇さ)を放り込む。自らが鬱と背中合せであることをうすうす感じつつ、振り返らぬよう小さな画面に没頭する。

人間、効率――という極度に偏頗な価値――だけを追い求めつづけるとどうなるか。当今のランドスケープが答えそのものである。

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物と物がつながる。カセットテープの物的な感覚は、対応するカセットデッキの物的な感覚につながる。A面B面を意識し、ボタンを押し込むアクションは意思決定の「触覚」そのものだ。

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待望のソフト(カートリッジ)を本体に挿した時、バイナリよりも一瞬速く「遊び」がはじまる。ROMのスタンドアローンな性質が楽しみを物的に所有するよろこびを刺激する。

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スマホで撮影というのは「カメラ機能」を使っているのであって、「カメラという道具(物)を使いこなす喜び」とは質が異なる。

「好率」は「効率」に先立つ

私は仕事の道具にはより高速、より大容量、よりコスパよしといった「効率」を重視する。それは仕事だからであって、仕事外の楽しみにまでそんな鈍色一色の世界観は持ち込まない。はやく仕事を終えて「好」に向かう。特急下校、特急退社。昔から変わらず好率重視であったことを、この記事を書いていて再認識した。

世のあらゆる事々を「効率」のものさし一辺倒ではかることは偏頗である。効率が第一義となる場面はかぎられている、というのが立体的・有機的次元における平衡感覚をともなった視座だろう。

私は常識一辺倒ではない個性的な人が好きだ。愛着のあるものはスペック度外視。瓶ビールの栓を抜く一手間も趣きがあって良い。エレベーターの効率より京町家風の建物の木の階段の軋む音をえらぶ。車の往来がはげしい国道沿いより遠回りでも静かな堤防を歩くことが日常だ。

そして今――歳をとるごとに、余暇を非効率・高好率に傾けるようになった。「今」の居心地が良いのは、つまりそういうことなのだろう。知性の喜びのためには、むしろ非効率なほうがよいのではないかと感じる今日このごろである。

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「効率」はより高速な情報の移転を目指すが、それは仮想性の増進でもある。現実性の基準は事物の漸進性、持続性、耐久性であり、その中枢は身体性(物質性)にある。単に事物を電磁化・高速化するだけで、人間は宇宙霊的存在になど飛躍しない。現今の頽廃性は効率のみを指向するテクノロジーの視野狭窄にも原因がある。

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