シープル|秋影書房

シープル

おのれの精神の痛みすら戯謔と諂笑のうちに「錯視」しながら、「単純な情操」を食む「シープル」の群れ。

単純な情操の標準化

「蜂群崩壊症候群」という現象がある。女王バチや幼虫を残したまま、働きバチが巣から忽然と姿を消す現象だ。原因は明らかになっていないという。空虚な王国の王、放棄された未来の命。はて、これはハチの話か、ヒトの話か――。

何処の誰だろうが、話柄といえば「情報」を引き延ばした等し並なものばかり。話の枕にまずは天気の話でも、というのではない。会話の醍醐味の「情操」はどこへいった。

「情操」もまた忽然と姿を消したもののひとつのようだ。代わりに情操のなりそこない、「単純な情操」が情操然として跋扈している。ちなみに「情操」とは「複雑なもの」という前提があるから、単純であれば似非の情操といっても過言ではない。きわめて単純な似非の情操、これを「単純な情操」とよぼう。

若輩に受けが良さそうな歌詞が街のほとりで流れている。――世界はひとつになれる、人はわかりあえる、云々――。

広告に関係する仕事をして長い。そこで、これからの広告の主流を予測してみよう。それは「単純な情操」である。消えた情操に代わり、「単純な情操」が空虚な王国を満たすにちがいない。

砂埃にまみれさせ、憂いに満ちた眼差しをカメラに向ければそれでいい。それで「単純な情操」が押し通る。水戸黄門の印籠よろしく押し通る。紛争で生活を破壊された難民救済にせよ、地球規模の環境問題にせよ、批評の切り口は「単純な情操」が常套手段になる。社会や世論を操作し、カネの流れを操作するのに「単純な情操」は「標準」になる。「単純な情操」が商材となり、政策になりビジネスになり、カネになるのである。

シープルによる新たな文明

人にやどる情操は複雑なものだ。辞書にも文化的・社会的価値を具えた複雑で高次なものとある。情操のなりそこないである「単純な情操」は本来、人にやどる代物ではない。しかし、時の流れというのはおそろしいものだ。今や主流は情操ではなく「単純な情操」であることを種々の社会的現象が明示している。

あえて悪し様に言うつもりなどない。生来の狷介固陋な性格を差し引いて、事実を観察するかぎり、そうなのである。およそ人みな、多弁だが婉曲な表現に終始し、舌先三寸で情報を単に延長した言葉をピーチクパーチクやっている。意味、索漠たる景色に退屈を覚えてはいるのだろうが、学習性無気力★1というやつか、受け入れている。締まりのない穴のように。社交は今やその穴の底に沈滞している。

では一方で、個人としては壺中の天とでもいうべき別世界をもっているのかといえば、どうやらそれもないとみえる。羊が草を食むようにスマホを弄り、刹那的な駄弁に耳目をあずけ、己が神経系を半睡状態に膠着させる。

もはや何を言ってもやっても死に馬に鍼をさすようなものだ。慷慨したところで詮無いことであるのは百も承知だ。しかし、それでも最大限の皮肉をこめ、あえて言おう。人の皮をかぶった羊「シープル」による新たな文明、バンザイ、と。

★1 学習性無気力――長期にわたり、ストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物が、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなる現象。他の訳語に学習性無力感、学習性絶望感等。

シープルの錯視

シープルの特徴のひとつは「錯視」だ。「単純な情操」に基因する、ものの見方の偏頗である。

たとえば、あるスポーツで偉業をなしとげた人物がいるとする。むろん、その道においては耿々たる結果をだしたのだから、尊敬に価する。しかし、それはそのスポーツにおける価値であって、人間普遍の価値ではないのはいうまでもない。スポーツで偉業を成したからといって、駐禁の罰金を免れることはないし、他分野の要談において要須たり得るか疑わしい。

ところがシープルはこれを「錯視」する。ハロー効果★2ともいうが、一つの面で優れていれば他の面でも優れているとみなすのだ。きわめて単純にかたむいたものの見方だが、シープルはみな同じ見え方をしているため、群れとしても一顧だにしない。ひどい場合には、孫にあたる年格好のスポーツ選手に年長者が人生の悩みを相談するような滑稽を目にすることもある。

体格ではるかに劣る牧羊犬に、体重100キロを超える羊の成体の群れは隷属する。「シープル」とは言い得て妙だ。シープルの錯視を別言すると、シープルは自らの脳裡に映じた「イメージ」に自己批判を差し向ける知能がない。相手が犬ですらなくネズミであっても、「イメージ」にほだされ、隷属する。嚮導者が「薬」と吠えれば実際には「毒」でも無批判に食み、飲み下すのである。

★2 ハロー効果(halo-effect)――ある人が一つの面で優れていると、その人が他の面でも優れているとみなす傾向。光背効果。

「イメージ」を食むシープルの一生

シープルの行動は基本的に無意識的だが、「群れにおのれを埋没させる」という防衛機制だけは自覚的である。ムクドリの群れにもみられるような、群れという空間のなかでの安全地帯の確保だけが、シープルの畢生の目的となり課題となる。

よって、シープルというのは個人としても死活の危機、あるいは争議・争闘の危機といった経験が皆無にひとしいものが多い。危機に相対しては逃げの一手であるため、経験が発生しえない。ゆえに彼らのいう「危機」もまた「単純な情操」に根差す「イメージ」にすぎない。

生来、過剰ともいえる安心・安全をもとめる思想、環境に定位してきたがために、危機にたいする論理的な思考、選択をもたない。観念も使わなければ廃用性萎縮を起こす。そうして危急の際には、ムクドリの群れが実際にそうなることがあるように、パニック状態で壁や建築物に激突する。おのれらの偏りすぎた観念により圧死する、いわば自滅である。

技術においても然り。安心と安全、生命の延長がシープルにとっての最高の価値であるため、それらに資する技術にのみ技術の価値を見出す。その技術観もまた「単純な情操」に根差している。

これらすべて、完全に被食者の原理ながら、肉は食べる。自己顕示欲は弱いが、自己承認欲は強い。競争原理においては被食者の立場をとりつつ、自己原理においては支配欲動に衝き動かされる。怯懦にして小賢しい。

氷炭相抱えるような自己矛盾と自己欺瞞に焼かれながら、その痛みを学習性無気力で冷やす。その集合的意識が「シープル・ソサエティー」の本質である。

軽度の精神遅滞と鬱でできた巨大な塊が、やがて社会や文明の歯車の隅々に絡みつく。精度を失い、機能を失い、やがて精神の羽根が世界を放棄し、その姿を消していくだろう。

無限の運命があるなかで、この世界の運命はかなり収斂されつつある。
――シープルやめますか? それとも人間やめますか?――
これからの逆無可有郷ディストピアの表向きは、さぞスタイリッシュで品行方正なものとなろう。「単純な情操」ではその負価値性を見抜くことはまずできない。おのれの精神の痛みすら戯謔と諂笑のうちに「錯視」する。それがシープルというものである。

イメージ

シープルは戦いにともなう苦痛を恐れているのではない。彼らは苦痛の「イメージ」を恐れるのである。

シープルにならないために

菜食主義者ベジタリアンをやめることだ、というのは冗談だが、解剖学者でなくとも事物の内部構造に興味関心をもつことだ。なぜなら人間のやることはたいてい裏腹だ。時計の示す時間と空のぐあいにズレを感じたなら、空ではなく時計を疑うべきだ。そして時計を分解すれば、歯車にせよ電気系統にせよ、つまるところ原因は人間にあることを必ずや発見するだろう。

「人間の意識の存する遍く時空において、人間は原因である」ということに、量子の世界をきっかけとして気付きはじめている。それは知的宇宙「情操」を「生きる場」とする人間の本来性回帰へ通ずる科学的なインスピレーションのようでもある。

「情操」を涵養すべく、批判精神を外のみならず内へも向ける。事物の内へ、おのれの内へ。 シープルではなく、世界の原因である人間として、情操の体現者として。

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