感じる知性

感じる知性とは

日本経済新聞の調べによると、2020年度の住宅金融支援機構の利用者が住宅ローンを完済する平均年齢は73歳――この事実の示唆のひとつは「知性が不感症になっている」ことである。来年のことを言うと鬼が笑うとは平素よくつかう言葉だ。にもかかわらず、35年先のことを言い切ってしまう人が跡を絶たないのはなぜか。ブルース・リーの名台詞考えるな、感じろ!に結論を据えつつ論を展開する。

不感症の知性

日本経済新聞が住宅金融支援機構のデータを調べたところ、2020年度の利用者が住宅ローンを完済する年齢は平均73歳らしい。この数字をどうみるか。私なら「やばい数字」とみる。なぜならそこに「相当な仮想」という「やばさ」をみるからである。

野生生物は常に「やばさ」と隣合わせだ。だから彼らは特定の器官を高度に発達させるなどして、その「やばさ」に対応している。では、生物としての人間はどう「やばさ」に対応してきたのか。周知のとおり発達した「大脳新皮質」である。

肩こりや首こりに悩まされるほど頭でっかちな人間。しかし、文明病とでもいうべきコマーシャリズム(営利主義)やイノベーショナリズム(革新主義)に毒されつづけた頭は悲愴だ。自らの頭が作り出した文明、そこからの偏頗な不自然環境のせいで、その頭は単純な計算機へと廃用萎縮してしまっているようだ。

その結果、「感じる」ということを忘れてしまったらしい。つまり、現代の知性は往々にして「不感症」に陥っている。そうして明日の天気も当てられないにもかかわらず、数十年先までつづくカネの返済を「可能」と確信してしまうのである。

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来年のことを言うと鬼が笑うとはけだし至言である。では35年間の契約について、鬼はどう反応するのだろう。

知性の明と暗

事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きているんだ!とは『踊る大捜査線 THE MOVIE』の台詞だ。「知性」にもこのような位相ごとの展開がある。

脳に熱中した会議室の知性は「明在系」にあり、脳が現場にあってホリスティックに機能する状態、総合的知性は「暗在系」にある。ここではそれぞれ「明在知」、「暗在知」、とよぶことにする。

会議室で事件への対応を喧々諤々やっている状態は「明在知」を寄せ合って突き出た氷山を数えているようなものだ。反対に、現場で事件それ自体に相対している状態は身体全体で感じている「暗在知」である。それは氷山の基底ともなる海全体をとらえた、よりメタな次元に感覚をおく。前者が「不感症の知性」であり、後者が「感じる知性」であることはいうまでもない。

この論点をさらに展開してみよう。安冨歩『生きるための経済学〈選択の自由〉からの脱却』から手続的計算創発的計算という概念を私なりの解釈を交えつつ拝借する。

手続的計算と創発的計算
私は、チューリング・マシン(すなわち、現在のコンピュータ)によって実現されるような計算を「手続的計算」と呼び、暗黙知の作動によって実現される計算を「創発的計算」と呼ぶ。
──
安冨歩「手続的計算と創発的計算」、『生きるための経済学〈選択の自由〉からの脱却』NHK出版、2008年

手続的計算創発的計算という概念にもとづけば、住宅ローンについての一幕は次のような解釈になるだろう。

「みなさん35年返済をご利用されますよ」という案内人の一言は手続的計算
「うちもそうしましょうよ」という嫁の能天気な囁きも手続的計算
「じゃあ、これでいこうか」という亭主の断末魔も手続的計算

すべてが手続的計算である。つまり三者が単純な計算のみの手続的鼎談にて一般的に生涯最大の買い物、家族の一大針路を決定するのだ。そこに35年という不確実性の夜の海にたいする恐怖や不安はない。不感症によって氷山の海面上の部分は海面下の約7分の1にすぎないことが完全に抜け落ちるのである。

私は、暗黙知の作動による創発的計算には、身体が決定的な役割を果たしており、それと脳との複雑な相互作用が関与していると推測している。その計算過程は、チューリング・マシンが実現しうる計算の範囲を大きく逸脱しているはずである。この部分を私は「創発的計算」と呼ぶ。
映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーは、
「考えるんじゃない、感じるんだ!(Don't think, FEEL!)」
と言った。これを本書の言葉で解釈すれば、以下のようになる。
「手続的計算に頼るんじゃない、創発的計算を信じるんだ!」
──
安冨歩「Don't think, FEEL!」、『生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却』NHK出版、2008年

たとえば「合気道」において、この創発的計算の論より証拠的な実効を垣間見ることができる。相手のあらゆる情報をインプットして手続的計算をしたところで、合気はおろか護身術の欠片にもならないだろう。事に臨み、事の中に入って、感じなければ(創発的計算)、合気の極意には達しないだろう。

相手のみならず状況をも総合し、自己意識の拡大ともいえる「事全体のなかに身を置く」ことによって「技」となるのではないか。その延長線上には「宇宙即我」があるように思う。

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氷山の海面上の部分は海面下の約7分の1にすぎないといわれている。

「考えるな、感じろ!(Don't think, Feel!)」

映画『燃えよドラゴン』でのブルース・リーの名台詞考えるな、感じろ!(Don't think, Feel!)にはつづきがある。

月を指差すのと似たようなものだ。指に集中するんじゃない。(It is like a finger pointing a way to the moon. Don't concentrate on the finger.)

仮に月を指差しつづける時(住宅ローンのような長期的目標に向かう時)、指に集中していれば、やがて指の先から月は消える。当たり前のことだが、月は移動しているからだ。「住宅ローン完済平均年齢73歳」についていえば、「最初に指差した位置に73歳まで月はじっとしているか」ということだ。答えは「そんなことはありえない」というほかない。

手続的計算は手続上の月を目指す手続のための計算であって、それは仮想ヴァーチャル現実リアリティである。しかし「不感症の知性」は知的肌感覚が麻痺しているため、それを現実リアリティだと錯覚してしまうのである。

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もしかすると、ブルース・リーも「感じる知性」のことをいっていたのかもしれない。

不感症の知性は仮想現実に漂う

世間にあふれる手続的計算という「誤算」による被害。これらを少しでも減らすためには創発的計算としての「感じる知性」を養うしかない。そのためには「知性」というものが「身体をも超えた全体性からの析出」であると認識をあらためることだ。

我々は映画『ルパン三世 ルパンVS複製人間』の「マモー」のような、ガラスの中の溶液に浸かった脳ではない。身体をもった人間である。 知識社会へ移行してからというもの、人は脳に異様な権威を与えつづけている。しかし「脳」それのみでは目の前の醤油を取ってかけることもできない全体性の一部でしかないのである。

仮想ヴァーチャル現実リアリティ現実リアリティのひとつとして認めるのは、それだけ「明在知」に単焦点化しているからだ。現実リアリティ現実リアリティであることの証左は、西部邁の適切な表現を拝借すれば人間の為すことはすべてヴァーチャルなのだが、デュアリティ(耐久性)を持つヴァーチャリティだけがリアリティに昇格することにある。

デュアリティとは過去からの時効の証明のことだ。35年先をあたかも見てきたかのような計画にデュアリティはない。未来にリアリティを感じることもデュアリティを感じることも、麻痺した感覚からの「幻覚」なのである。

35年間、月を指差し続ける――そこには大小数多の障壁が立ちはだかることは想像に難くない。「そんなこと、口で言うほど簡単にできるものか!」と思うなら、その「感じ」こそが「知性」である。モデルルームという手続の場ヴァーチャルで納得したことより身体的現実リアリティにもとづく感知センスなのである。

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デュアリティ(耐久性)からのリアリティ(現実)がヴァーチャルリアリティ(仮想現実)の前提である。つまり現代においてはヴァーチャル(仮想)とリアリティ(現実)の逆順現象が起きている。

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