認識村

認識村
世間を壊す認識共同体

人はさまざまな理由でグルになる。仲間、組織、党派、階級、等。これらの本質は「認識」である。人はめいめい「認識」の「村」で一生を過ごすことになる。この「村」は排他的、時にはいかがわしいなにかを隠すような「壁」に囲まれている。地図にはない、不可視だが最大の影響力をもつ「認識村」――その村落探訪である。

認識がつくる「村」

同業者だけの酒席ほどつまらないものはない。ジャーゴン★1の応酬、つまりくだらない多弁である。

人はさまざまな理由でグルになる。つまり排他的にひきこもる。仲間、組織、党派、階級、等。これらの本質は「認識」である。人はめいめい「認識」の「村」で一生を過ごすことになる。

私はこのようなグル、いわばダマになった状態に停滞することを好まない。なぜなら偏頗に狭窄されている感覚を覚えるからだ。そこにおける精神の立ち居振る舞いは、常にいくばくかの遅滞をふくむ。「オラ東京さ行ぐだ」とは言わないが、ほどほどにその「村」から出て行きたくなる衝動にかられる。

認識村の村民という状態はかならずといってよい、個人より多くのものを流失した状態である(群衆心理と群衆の運命)。

★1 ジャーゴン――グループの内だけで通じる用語。業界用語。

センメルヴェイス反射の壁

「センメルヴェイス反射★2」とは、常識や通説、信念にそぐわない事実を拒絶する傾向のことをいう。それに「壁」という一字を加えるとなおしっくりする。つまり自分の認識と異なる事実にたいするバリア(防壁)である。

論理的、道義的に至極まっとうなことをしたり言ったりしているにもかかわらず、気狂い扱いされる、袋叩きに遭う。こういうのを「センメルヴェイス反射の壁にぶち当たる」と私はいう。

「意義も生産性もまったくないといっていい会議などやめたほうがいいと思います」
と新入社員が口にしようものなら、
「今までずっとやってきたことだからねえ。ところで君、明日からもう出社しなくていいよ」
――センメルヴェイス反射は「常識や通説を笠に着たハラスメント」のような態度として表れることが多い。

「村」はそれぞれ「センメルヴェイス反射の壁」に囲まれ存在している。オープンな「村」などないといっていい。「壁」の中では村独特の風習が機能しており、なかには狂気じみた気色が悪いものもある。そしてこれら「村の風習」なるものが、ときに世間を理不尽に後退させることを知っている。

むろん、個人においても「壁」はある。しかし、集団で築き上げられた「壁」とその「村の風習」は、そこに世間を歪曲させるほど大きなエントロピーを生み出すのである。

★2 センメルヴェイス反射――オーストリアのウィーン総合病院産科に勤務していた医師センメルヴェイス・イグナーツは、産褥(さんじょく)熱が接触感染である可能性に気づく。そして、予防法としてカルキを使用した医師の手洗いを提唱する。しかし、その方法論が理解されず、大きな排斥を受け不遇な人生のまま生涯を終えた。センメルヴェイス反射(Semmelweis reflex)という用語はその史実に由来する。

渡る世間は「村」ばかり

たとえば「学界」という「村」がある。この「村」の「壁」にかまえる門を叩くのは熟慮する。なぜというに、この「村」には妙な風習があるからだ。たとえば大学の研究室なるもの。

別言すれば資金ゼロのベンチャー、それが大学の研究室というものだろう。こうした申請書ビジネスの側面には、あきらかに娑婆とは異なる位相が存在する。ある種の安易、理不尽、くぐもったカネのニオイが漂う。

同様に感じる「村」として「政界」、「医界」等、枚挙にいとまがない。これらの「村」の多面のうち、実体的世間に害するところが益するところを(著しく)上回っている側面はないのか――それこそ計量的に表わす研究があっていいのではないか。AIが信用評価をしスコア化する時代なのだから。

「壁」を取っ払うことは可能か

管見によれば、それは不可能だ。自身の半生を顧みても歴史を俯瞰しても、「壁」は常在し屹立しているのが世間である。

論理や正当でその「壁」を崩しにかかっても無駄だ。壁内のものが反省し、改心して「壁」からぞろぞろ出てくるということはまずない。 「目からウロコだよ。解放してくれてありがとう」 とはならない。彼らが壁内に籠もる理由のほとんどは利(profit)であるからだ。だから「壁」を傷付けたり崩したりすると、ハチのように攻撃し、対象を駆逐した後、せっせと「壁」の修復にとりかかる。

正義はいつの世も大した武器にならない。彼らに正義をかざしたところで、まごつくことも臆することもない。それは人というものが真(true)が何かを承知の上で、利を目的に偽(false)の壁内にひきこもるからだ。そのなかでも最大多数、あるいは最大のカネをもつ「村」が利己的な「通説や常識」を決定的にする。そして「通説や常識」が常に偽(false)にまみれる仕儀となる。

議論不用、説得不能。折り合わない村と村人とは問答無用で絶縁するのみである。それが社会全体の均衡のため、方便としてでも必要装置を内蔵していた文化や伝統、慣習等を捨て去った世の必定である。村々の寄合としての国家は空中分解し、ぎらつく目をしたハイエナの徒党のような村人が騒擾のなか徘徊するのみである。

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正義の前提は少年誌がかざすような単純なものではない。

認識の礎は孤独にあり

パスカルは正義とは、すでに確立されたもののことといった。つまり世間は常に相互に打倒すべき正義で出来ているということである。「オラ東京さ行ぐだ」といって村という村を出て行きたくなる気持ちは、不正への嫌気ではない。正義の騒擾への絶念、認識の礎につながる孤独の道を欲するのである。

ニコラ・テスラは独りになることが発明の秘訣だといった。「発明」には方法、技術の考案といった意味のみならず、道理を明らかにするという意味もあるのである。

認識の礎は孤独にあり。正義の村人であるまえに、認識の母をたずねて三千里、孤独の道を歩むべしといいたい。今日も今日とて村に住み着く烏どもが、烏を鷲と言って騒いでいる。それらは孤独にたいする無知と自欺の態度であり、認識の海の水面に漂う油膜のようなものにすぎない。認識の礎なしに立つ認識になど、理(truth)はないものである。

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