老災|悪化する高齢化問題にどう向き合うのか

老災
悪化する高齢化問題にどう向き合うのか

「高齢者は集団自決」――問題はこの発言ではなく、相も変わらず薄っぺらな解釈しかできない世間。問題の本質を見ようとしない、自欺に淫する世間。

二度と上がらぬ老人の価値

まんが日本昔ばなし』の『うばすて山』を観れば、老人の価値は今後もう二度と上がらないだろうことが分かる。『うばすて山』の話はこうだ。60歳になった老人は山に捨てなければならない「うばすて」の御触れがだされる。だが、老人のもつ知恵には価値があることを認めた殿様は、その御触れを取り消した。めでたし、めでたし――そんな大団円は過去のものだ。

老人の「知恵」が「価値」となるには条件がある。それは世代を超えて共有されるような「恒常性」が環境になければならない。道具が、関係性が、知識がおのれ以上に長命であるとき、知識の統辞法としての「知恵」という価値が見出される。むろん、脳障害がないことも付け加えておく。

技術文明では「知恵」より「知識」が価値となる。それは技術文明が制度・慣習等、体系の制御破壊と新プロセスの間断なき反復運動により駆動する性質のものだからだ。つまり「知恵」という統辞法にあたるものは必要ない。「システム」における人間の言語は「コマンド」的になり、それは知識的である。

知識が価値となるだけであれば、まだ老人の価値は保たれる――否、そうはいかない。技術文明における知識の代謝は加速度的だ。古い知識の活かしどころは日々の暮しや社会のインフラから立ちどころに姿を消す。知識代謝のわるい人間ほどアナクロニズム(時代錯誤)のレッテルを貼られ価値が下落する。それは半ば知識社会不適格者のレッテルでもある。

強いて言えば、インフラが停滞した限界地域は時の流れの停滞地域。老いても知識のコンテンポラリーダンスを踊れと社会から脅迫されない、老人にとっての聖域だ。かろうじて三丁目の夕日が拝めるついの住処である。

技術と知識の衰退がとりもなおさず物的衰退となるのが技術・知識社会だ。おちぶれた地方はもうろくした老人という技術・知識社会の最下層、その最終処分場として皮肉な価値を得る。地方(痴呆)スラムは現代の「うばすて山」だ。

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衰滅の前段階としての限界。

悪化する高齢化問題

私が住んでいる地域(市)は全国平均に比して高齢化が進んでいる。総務省のデータによれば、2000年を分岐点に、2025年には全国平均に比して+2.8%、2035年には+3.6%と右肩上がりだ。1%程度であっても人口10万人規模では1000人なのだから馬鹿にならない。

そしてここへきて、高齢化の次のフェーズがいよいよ頭をもたげてきたと感じる。そう、地域の高齢者がボケはじめたのである。ちなみに私は「認知症」という言回しを好まない。世間は言葉に対し、いたずらにセンシティブになっていっているが、それは時に臭いものに蓋をする態度だ。世間ぐるみの自欺にすぎない。「認知症」という現象に直面すれば、「ボケ」という辛辣な言葉が実際的であることは否めない。それほど悪性をはらむものなのである。

ボケた人間を観るに、「自己性」とは「抑制」にあると思わせられる。ボケの悪性を発揮するとき、人は「抑制」という「たが」を失う。すなわち精神の風姿を失う。キリスト教における七つの大罪(傲慢、嫉妬、怠惰、憤怒、強欲、色欲、暴食)のうちの三つか四つが剥き出しになる。人間の地金とは斯くも醜いものかと、やるかたない気持ちになる。

ちなみにボケた老人の問題行為を注意した際、反社顔負けの罵声を浴びせられることもある。これに「認知症」などというオブラートで包んだような言葉(事由)で納得し、溜飲が下がるほど私は聖人君子ではないし、言葉に鈍感でもない。

責任能力なしとみなされ、終生無罪を言い渡されたごろつき(とくに悪性のひどいものに関して言えば)――彼らを過分に庇護し増長させることは、風紀紊乱を黙認することにほかならない。超高齢化の日本発の、ボケをも吸収するフレームワークを構える必要があるだろう。世界に先駆けた社会実験に取り組む時機にある。

ボケという地雷

先日、高齢者は集団自決という言葉がクローズアップされたが、浅瀬の騒擾にすぎない。問題の核心へと掘進できず、言葉の表層にしか反応できない世間がクローズアップされたにすぎない。

弾道ミサイルにJアラート(全国瞬時警報システム)を鳴らすなら、ボケにもアラートを鳴らせといいたい。ボケのような常在の危機を、世間はもっと恐れるべきである。ボケた高齢者はすでにこの国の脅威として数えうるのだ。

たとえば「地雷」というのは共同体を破壊する戦略的兵器としての側面をもつ。地雷は殺さず、負傷させることを目的とする。負傷兵の救護のために他の兵士が離脱することになり、隊全体の戦力が低下する。また、後に身体に障害を負った人間へのコストというかたちで共同体を弱体化させる。

ボケにも同様のことがあてはまる。ボケた人間は知的に危ういので、介護者が必要となる。介護者が生産年齢人口に含まれる場合、そのパフォーマンスが低下することから、共同体のパフォーマンスの低下につながる。そのエフェクトはまさに地雷的だ。

2025年には日本の認知症患者数は約700万人に達するという★1。ブルガリア一国に相当する数だ。これが医療機関で認められる数をいっているのであれば、実際はさらに多いだろう。何せボケた老人は自らを「ボケとらん!」といってはばからない。地雷は地面に埋められ隠されるように、ボケもまた同様なのである。

★1 認知症施策推進総合戦略/厚生労働省

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老災への防災・減災

ボケは本人の過失によるものではない、とはいえ、ボケた人間によって生活、人生に破壊的被害を受ける人間がいる。共同体の破壊を加速する。これはもう、社会がボケをある種の災害として認める必要があるだろう。そして建設的発想へと切り換えるのである。

かつてはこの国のために働き、尽くした人々なのだから――といった単純な情操は現象を放置すれども解決はしない。或るものが価値をなす側面と価値をなさない側面がある、その見極めが日本人は下手である。それが高齢者は集団自決という発言にたいする的外れな反応に露骨にあらわれている。

複眼的かつ可変的な視座をもてば、厄介なボケにもチャンスは埋もれている。地雷撤去に予算がつきビジネスになるように。問題山積の日本、すべての問題を問題のまま受け止めていたのでは地獄である。

ハムスターホイール(hamster wheel)とは、ハムスターなどネズミ目の動物を運動させるための遊具のことだ。ボケて徘徊する老人に楽しんでもらうと同時に、その運動から発電できる装置を開発するというのはどうだろう。

数百万もの地雷が埋められた国土をどう歩けばよいのか。どう生きればよいのか。高齢者は集団自決という言葉が問題の本質へのアラートとして機能しなかったことは、世間が問題の入口にも立っていないことの証左である。自欺に淫する世間というものの証左である。

可能性としての自然災害より、某国の核より、現在ただ今、すでに進行中の厄介な問題である「老災」。悪化する高齢化問題、老災への防災・減災に今、取り組むべきだろう。

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