バーバリアン|思考を失くしたもの

バーバリアン
思考を失くしたもの

かつてパスカルがいった「考える葦」は「考えない葦」、あるいは「考えられない葦」となって久しい、さながら冬の枯葦の景色。脆薄な人間という存在は、「思考する」というその特性に価値を見出さざるをえない。そんな方便としての価値すら、もはや危うい。

枯葦

かつてパスカルがいった「考える葦」は「考えない葦」、あるいは「考えられない葦」となって久しい、さながら冬の枯葦の景色。

脆薄な人間という存在は、「思考する」というその特性に価値を見出さざるをえない。そんな方便としての価値すら、もはや危うい。その一端が、たとえば言葉にあらわれる。ここ日本で日本語を使っているというのに、異邦人として異国の地にいる気持になること、もはや常である。

こうなるともう、人に向かって言葉を発することが億劫になる。駄弁にたいする障壁のないオフィス、SNS、いずれも忌避するのは、それらが下手で煩わしいからだ。人の「偉大」の唯一の証明であった「思考」が、「卑小」の証明になり下がる。

先日、仕方なく、ある商品についてメーカーのWebサイトから質問した。

Q:(商品名)開封後のおおよその消費期限を教えてください。 ※記載されているのは未開封における消費期限のため
A:消費期限は記載されているとおりです。

ちゃんと読め。ちゃんと「思考」を伴え。開封後、その誤解の時間が経過したものを口にしたら、事故にならないか? あらためて質問する。今度は「開封後」を目立たせる。再びきた返事は誤解の謝辞と、具体的にはいえないとのことだった。Eメールという、まどろこしい、手間隙コストのかかるやりとりで、歯痒いといったらない。

OECD国際成人力調査(国立教育政策研究所編『成人スキルの国際比較 OECD国際成人力調査(PIAAC)報告書』、明石書店、2013年)によれば、「読解力」の調査結果は、たかだか150字程度の文でも、理解できる日本人は23.7%だという。しかし、私が日々目の当たりにする現実は、もっと惨憺たる印象だ。50字以下の文でも、相互疎通の確率は23.7%あるとは感じられない。

私も人間だ。二度、三度と繰り返しても通じないとき「英語のほうがいいですか?」と達者でもないのに嫌みを言いたくなることもある。日本にいて日本語が通じないことになろうとは、夢にも思わなかった。

そんなたどたどしい言語野で生の文脈を綴るものが、700馬力超のランボルギーニをかっ飛ばす。原子核反応の装置の操作を任される。現に在る光景。事故にならなければいいが。

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バーバリアン

「思考」にたいし「無頓着」をとおりこして「無能」なものは、そこに潜む「蛮性」を歯牙にもかけない。ゆえに「バーバリアン(野蛮人)」である。

むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に――60字足らずの文でも理解に至らないものは思いのほか多い。そしてその過失を矮小にとらえるものも同じ数だけいる。

おじいさんが洗濯で、おばあさんが柴刈りだったか? まあどっちでもいいか――「思考」にたいする杜撰が積み重なり、杜撰の城を作り上げる。そしてその城に相応しい暗愚な城主を戴き、環境がそれになびく。「思考」にたいするおのれの杜撰な態度が、とりもなおさずおのれに関わる一切に野蛮なロボトミー(神経径路切断手術)★1を施すことになる、その蛮性をバーバリアンは歯牙にもかけない。

こうしてたとえば、地球生命史が幾千、幾億年かけてたどりついた「性」という意味と過程を矮小化する。「ワクチン」という無毒化毒素、つまり仮にも毒素ならばその中身についてじゅうぶんな知見が必要だろうという真っ当な論理を講ずる神経径路を切断する。そして終には「おじいさんが刈ったのが、柴でも、芝でも、死馬でもかまわない」という魯鈍な闇穴に底なしに沈んでゆくのである。

とどのつまり「道祖神」がそこにあることについて一顧だにしないものどもが、つまり思考的に配置された時空の綾(文)を解せぬバーバリアンが盲滅法にのさばる、これが現在という帰結である。

そんな文明社会に――「人生100年時代(笑)」――100年も生きたいか? 私は御免蒙る。鬼が桃太郎を退治するという行違いも何ら気にかけない、そんな痴呆か阿呆か、魯鈍な世界に愛想も小想も尽き果てる。

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★1 ロボトミー(lobotomy)――外科的手技の一種。脳の前頭葉白質の一部を破壊して神経径路を切断する手術。

敗走する思考

何処其処の大学出だ、企業出身だと、(私の前で)その衒言は悪手である。なにせ人間五十年、それらが私が尊人と認めた人物の理由であったためしがない(そういえば人物紹介にいちいち役職と出身大学とを並記する、なんとも滑稽な企業もあったが)。

おのれの学力(学業成績として表される能力)は如何に偉大かを叫ばれたところで、訊かれてもいないことを喋々するその思考力が烏賊程である(存外、烏賊は利口な生きものなので烏賊に失礼か)。その力の効果として、宇宙の価値を財と安心・安全に収斂させうるといわれても、狭隘なカルトのドグマに感ずるところなどあるはずがない。

学力よりまず思考力を――思考力に欠くものは、人の気持はおろか、おのれの気持も把握できない。つまり人型の容器、「空っぽ」である。ゆえに学歴だの肩書だの、素性も知れぬインフルエンサーの言葉だのが、まま流れ込みそれらを冠する。ラベルを付けたまま海に浮かぶ、ペットボトルと本質的におなじ。バーバリアンとはそういうものだ。

そんな彼らのみている光明の多くは光視症★2であって病的な症状なのだが、世は野蛮に染まり、錯覚の光を天球儀に記すありさま。そして、あろうことかその妖星を目指せという。思考した結果、彼らにたいする感覚を麻痺させるロボトミーを自ら施さざるをえない。

死地に陥れ、然る後に生くという孫子の言葉にまだ脈はあるのか、それをたしかめたいという蛮勇はもはや私にはない。が、私の「思考」の脈はまだ、打っている。

★2 光視症――視界に光源がないにもかかわらず、光を感じる症状。

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