アブナイ飛躍思考

飛躍しすぎ!!
アブナイ飛躍思考

「飛躍思考」――字面だけ見れば良い意味がありそうに思えるが、本論ではネガティブな意味でもちいる。「飛躍」の意味どおり「正しい順序・段階をふまず先に進む思考」と定義しよう。世間にはそんなアブナイ思考があふれている。なぜそんなアブナイ思考になってしまうのか。その原因は大きく「複眼的視座の欠如」と「イメージという暗示」がある。

聞き捨てならぬことばかり

世間においてもジャーナリズムにおいても、この世は聞き捨てならぬ言葉が脳髄を逆撫ですること日常である。「今回の東京2020オリンピック・パラリンピックでは、若者の活躍と彼らの謙虚な言葉が印象的だった」――。ここまではいい。問題はこの後だ。「最近の若者には期待できる。しかし、同じオリンピックで不祥事が目立った彼らより上の年代は問題だ」――。

オリンピックに出場する選手といえば、厳しい選抜の末そこに立つ、きわめて特殊な存在だ。そんな彼らをして「若者世代」と言い切ってしまうことに、飛躍が過ぎるといわざるをえない。問題視された上の年代においても然り。こんな思考は、自分に向かって石を投げたのがセネガル人だからセネガルはとんでもない「国」だと言い切ってしまうことと同じだ。軽愚とよんでさしつかえない「飛躍思考」である。

こういうのもある。「先進国では、個人にとっての原始的な脅威はとっくに克服され、組織の意味は形骸化している。国家はもはや不用である」――。そう宣う本人は、国家の恩恵といわざるをえない環境に頭のてっぺんから足の爪先まで浸かりきっている。これまたとんでもない「飛躍思考」だ。国家なき状態というものを体験したこともないのに断言してしまうのだから、おそろしいことである。

他にも、「清貧な一般市民」の肩を持ち「エスタブリッシュメント」を糾弾する惹句が目立てば「左翼」。「国益」や「国防」という言葉が頻出し「日の丸」に拝跪するのならば「右翼」といったありさまだ。

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「飛躍思考」は実現可能性が低い。コンテ(continuity)を端折り臆断にたよるからだ。蝋の翼で飛び立つも、最後は翼が溶けて墜落したイカロスのようになるのがおちである。現在のイノベーショナリズム(革新主義)にはこのパターンが散見される。また、漫画や映画、ゲームの世界にも瞬間移動の演出――一足飛び――は多い。「飛躍せよ」とは時代の声なのかもしれない。ただし、絶望的な着地になる可能性を多分に孕んだ飛躍となるだろうが。

複眼的視座の欠如

「視座」の話のまくらとしてよく使われる図を使おう。図の中央のような立体物は、真上・真下から見ると「円」に、真横から見ると「四角」あるいは「三角」に見える。それ以外の角度からでは、形容しがたい形に見える視点が無限通りあるだろう。

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「飛躍思考」が問題なのは、ある視座から「円」に見えたことをもって実体は「球体」であると断言してしまうことにある。ソクラテスが無知の知の言葉とともに哲学の舞台の最右翼に居つづけるのはなぜか。それは無知――人間の不完全性――を知の前提とすることが、いわば知の原則であるという共同主観的な認識からだろう。つまり「飛躍思考」は原則に欠く知に似て非なるものということだ。

あなたに石を投げてきたものがセネガル人であっても、それはたまたまそうだったという可能性が高い。それをもってセネガルをとんでもない国だと言い切ってしまうのは「無知」である。事実として、セネガルは人口1600万を超える国だ。1600万分の1という数を全体を決定づけるデータとして認めることなどありえないのである。

自分の視座からは「円」に見えたが、それで実体の形を知りえたことにはならない――。そう考えるとき、すでに「複眼思考」である。他の視座の存在の可能性を予測、想像できさえすれば「アブナイ思考」に歯止めをかけられる。

イメージという暗示

「暗示」とは、感覚・観念・意図が理性に訴えることなく無意識的に伝達される現象だ。そして、その現象の多くは「イメージ」を符号としてはじまる。人は日常的に「イメージ」をとおして「暗示」に暴露しつづけている。少々極端だが分かりやすい例を挙げてみよう。

529

これを見た人の多くは「529人の評価の平均が4.5」と勝手に判断するだろう。しかし、表記者の意図はただなんとなく星を4個半と、「5」「2」「9」という数字を並べただけである。上述のような意味と価値として解釈した人は、問いを発さず「飛躍」した結果「暗示」に着地したのだ。いわば脊髄的な反応である。

ではこういうのはどうか。

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「シュガーフリー」というカタカナ、「太らない」という側面的情報、全体から受ける「印象」。これらに踊らされ、人工甘味料の「神経毒」という側面にはまったく不知になることだろう(興味のある人は人工甘味料の分子構造を読み解かれるといい)。

これらすべて「イメージという暗示」である。企業が多額のコストを割いてでも人気俳優や権威(イメージ)をCMに使う理由はここにある。この場合の「飛躍」とは「理性」を一足飛びにするのだ。思考というよりもはや「飛躍反応」である。

傘はパラシュートの代わりにはならない

映画『メリー・ポピンズ(1964)』では、傘を開いて優雅に舞い降りるシーンがある。「飛躍思考」は連続的な理性の「コンテ」を捨象した傘をパラシュート代わりに高所から飛び降りんとする狂態である。

とどのつまり「飛躍思考は思考として弱い」のである。仕掛ける側からすれば、端折ったコンテの代わりにいくらでも陽動のための都合のいい絵をすべりこませることができる。ちょろいものだ。絶望的な着地に泣きを見るのは、乗せられて無謀な「飛躍」をしたものである。

世間が幾分、冷静をとりもどし、「飛躍思考」の瀰漫びまんが消沈すれば、ちょっとは「地に足の着いた」世の中になるはずである。

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