頽化論

頽化論
退化でも劣化でもない世間のありさま

頽化たいかという言葉は辞書にはないが、当今のありさまにふさわしい字は「頽」以外にないとの判断で造ったことばだ。「くずおれる」とは力をなくすことであり、「すたる」とはダメになることであるから、頽化とは力をなくし、ダメになることをいう。「退化」よりも負価値、「劣化」よりも陰鬱な意味である。こう聞いて「何をバカな。世は改革と飛躍の盛りではないか」――そうお考えの御仁には、拙論は時間の無駄にしかならぬもの。どうぞお引き取りくださいませ。

言語野の頽化

日本製で探してしましたが、密閉がフタもしっかりしていて満足です!私はビーズ入れに使ってますが、間違えなくおすすめ出来ます!
★★☆☆☆
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※ショッピングサイトにおける書き込み例

言葉の入力ミスはよくあること、不問に付すとして、「密閉がフタもしっかりしていて」とは気色が悪い日本語だ。「しっかり密閉できて」とさらりと言えんのか。おまけに「ビーズ入れ」として使っているなら密閉がたしかなものか、わからないではないか。つまり印象から、これなら漏れることもないだろうという、いいかげんな臆断にちがいない。 句点代わりの「!」も不特定多数の顔色をうかがう、稚拙な媚を呈する記号にみえる。

「間違えなく」というのも気色が悪い。「間違えない」は誤らない、しくじらないという意味で、正しくは「間違いなく(断定の意)」である。

さらにオチとして、満足して他人に勧めるぐらいだから、さぞ評価も高いのだろうと思いきや、星2つとはどういうことか。支離滅裂である。

「日本語がすでに日本製ではなく、全体的に魯鈍な文脈。こんな人間のおすすめはまったくあてにならない」となる。

たかが商品レビューでこうも穿った見方を、無駄な労を強いられるのは、世間という全体の言語野が平均して頽化しているからだ。

親しき仲でもよほど特別な関係でのみ、以心伝心が可能となる。つまり世間のほとんどすべての関わりは言葉にはじまり言葉に終わる。その言葉が頽化するということは、世間全体の関係の頽化となる。

「大筋が通じていれば問題ない」というものもいるが、では粗悪品だらけの店で買物への熱情を失うことは好ましいことなのか。

「言いたいことも言えない世の中」ならまだましなほうだ。「無様な言葉しかない世の中」は人の世とよぶにはぎりぎり、危ういものである。

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ネットはゴミのような言葉であふれかえっている。

感性の頽化

小さな孫を胸に抱いて語りかける老婆の後ろ姿に、別段、言うことはない。しかし、前にまわって目にしたとき、物言いたくなった。孫ではない、人型の小さなロボットに、熱心に語りかけているのだ。そこに現代の「感性」の変質・鈍化――頽化をみるのは、その光景がまだ社会の標準となっていないからか、あるいは私の偏見か――。

得体が知れない名が羅列する原材料名表示に一顧だにせず、我が子に食べさせる――これも「感性」が鈍った末の頽化に思えてならない。支給される手当を目的に子をつくる夫婦、おのれが知悉してもいない薬物を他人に強要するもの等、その根本に釈然としない「感性」――頽化をみる。

「できちゃった結婚」なる言葉の軽さは、「生」にたいする認識の軽さを無意識的に表明している。むろん「死」においても同様の認識の軽さであることは言うまでもない。言わば頽化した感性とは、価値相対主義が感性の髄にまで染み果たし、本来の基軸が溶けてなくなった状態ともいえる。

「生命」がやんごとなき価値であるのは、感性の本来的価値基準が保たれていればこそ、その前提なしに「生命」の安住はない。基準が流失したとあっては「生命」もまた流行の品々に堕する。そしてその最大の犠牲者は、より純然たる生命、動植物や子供である。

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ロボット化した人間は意味と価値においてロボットより劣る、悖る存在である。

美の頽化

世間に流行する「美」と称するもののほとんどを私は「美しい」と感じない。それらを「美」と称するには単次元・単焦点的すぎるのだ。浅すぎる観念構造といってもいい。私にとって「美」という言葉はもはや共有できないところにまできている。

たとえば、美容外科によって自ら「美」を得たという「美」の観念の持ち主とは「美」について語り合うことを私は禁忌タブーとする。

気晴らしの散歩道として、自然河岸より形を整えられたコンクリート護岸を選ぶ人とも、「美」について語り合うことを禁忌とする。

手間がかからないからと、生花ではなく造花を選ぶ人とも、「美」について語り合うことを禁忌とする。

それはあたかも「美」を浮薄と野蛮から匿うようだと感じてもいる。

ナウシカ(宮崎駿、『風の谷のナウシカ』東映、1984年)は、老人たちのゴツゴツした手を働き者のきれいな手といった。若いのに「もののあわれ」のわかる奇特な娘である。「美」の観念が「形」の次元に留まるものは、これを単なる慰めや優しさと解釈するのだろう。だが、それは単焦点的な視座にすぎない。

より熟成した「美」の観念においては、「美」は「形」の単次元のみならず多次元的に発展する。「律」、「時」、「情」、「意」、等「形」以外の種々の軸がより立体的な「美」の観念構造を成し、より多様な対象を美のうちに包摂するのである。美の観念の発展・発達とは、造化の業の美の多次元に接近することにほかならない。

しかし、これからの世運は働き者のきれいな手にことごとくハンドクリームやサプリメントを勧めるだろう。もう、げんなりする。

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VR(Virtual Reality)や遺伝子組み換え作物等、「形」の単次元上に展開する意味と価値である。

頽化した世界に生きて

ダーウィンによれば「進化」とは環境への適応であるから、頽化を受け入れられない私は進化生物学的にいえば退化種だ。けっこうなことだ。人生100年時代(笑)などという時代の空語も我関せず、頽化が条件の延命など望むべくもない。頽化という進化を潔しとせず、己が律の流れのままに往生したほうが筋が通るという納得だ。

頽化という現象のもっとも救いようがない本質点は、相対化された意味や価値で実在は代替可能とする傲慢である。おまけに神をも恐れぬこの傲慢の出処が単なる知の拙劣からというのだから、唖然とするよりほかない。

ちなみに今日は2022年8月8日。「8」といえば、ネットでは拍手の「パチパチ」という音の表現として「888888...」とする。そういうのも、もう、げんなりするのである。

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