統合失調症社会[II]国防編

統合失調症社会[II]国防編
軍事、防衛、バランス・オブ・パワー

国家の恒常性の柱のひとつ「国防観」は今や散逸してしまった。たとえるなら「居間と食堂は気にかけるが、鍵をかけたかどうかは一顧だにせず暮らす家族」――それが今の日本だろう。この緊張感のなさを象徴して「お花畑」ともいわれる。しかし、この「お花畑」に咲き乱れるのは「徒花」である。ズビグニュー・ブレジンスキーの言葉日本はFragile Flower(ひ弱な花)にすぎないは悲しいかな、けだし事実である。

戦争恐怖症(war phobia)からの
イメージに引きこもる国

日本人は先の大戦以降、平和に努める民族ではなく、戦争恐怖症(war phobia)という神経症を患う民族になってしまったようだ。神経症であるから、むろん健全とはいえない。

私が健全だと思う「戦」の(中庸的)観念は福沢諭吉の言葉にみることができる。

余輩の主義とする所は、戦を主張して戦を好まず、戦を好まずして戦を忘れざるのみ
――
西部邁、『福沢諭吉 その武士道と愛国心 』文藝春秋、1999年

このほか、無益な殺生を戒める「示現流」にも「戦」の中庸をみる。刀は抜くべからざるものという教えと表裏一体をなすように危急の際には迷わず無念無想に打つという精神のかまえがある。剣豪・東郷藤兵衛尉重位(とうごうとうべえしげたか)が剣の道でみた「戦」の中庸バランスだろう。

「衝突」という現象の可能性は、相対運動の宇宙において事物のすべてが胚胎している。つまり存在するものは衝突の可能性があるということだ。岩陰でじっとしていても、走っていてもだ。黄色いTシャツを着て愛の惑星・地球を掲げたところで、小惑星が衝突する可能性に変化はない。

恐怖症は神経症であるから、むろん、そこには冷徹な理路がない。だから恐怖にたいしては感傷的な言語と態度でのぞむ。自己を暗示と催眠によってなだめすかすのだ。日本国憲法第9条はその象徴として最たるものだろう。

それで平和が実現するなら、世界中が日本国憲法第9条をコピー・アンド・ペーストし、人類世界はとっくに大団円をむかえている。覇を唱える国が、他国の憲法を慮って平和的にうったえるだろうなどと、これを空想と言わずして何という。実際的には空文であることはあきらかだ。

いわば国を質草(しちぐさ)とし質に入れ、虎の威を借る狐として、対外的均衡をかろうじて、消極的に支えているにすぎない。日本の公共的資本をはじめとする国体の切売り。アメリカの保護領たるがゆえの、背後にある(アメリカの)経済力と軍事力。そして複雑な位置におかれた自衛隊。これが現実である。

「パシフィスト(平和主義者、pacifist)」の本来の意味は臆病者・卑怯者である。語源が明かす歴史の事実から目をそらし、俗解に耽溺する神経症が瀰漫する国。

いずれの日か、そのセンチメンタルな花畑のイメージから引きずり出される日がくるだろう。平和を祈念のみによって実現した国は、歴史をみるかぎり、私の知るかぎり、ない。

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只管これを嫌悪して徹頭徹尾戦はざるものと覚悟を定め(中略)百姓町人が白刃を見て震慄するが如きは我輩の取らざる所なり。
――
西部邁、『福沢諭吉 その武士道と愛国心 』文藝春秋、1999年

なぜ日本は戦争恐怖症に陥ったか

世界の多くの国々が戦争を経験したなかで、なぜ日本だけがことさら「反戦」とは似て非なる「戦争恐怖症」に陥ったか。種々の理由が考えられるなかで、ひとつにその民族的特性があるだろう。

(前略)
日本語は、断定的な表現を避け、暗示という綿のように柔らかい表現方法を発達させた。それによって人々の間でクッションの入った意思の疎通が可能となり、刺激的な物言いが和らげられ、過敏な反応も回避することができた。(中略)なんとしても、角の立った対決は避けるのである。
――
松原久子/田中敏(訳)、『驕れる白人と闘うための日本近代史』文春文庫、2008年

四方を海に囲まれた列島では、ヨーロッパのような広大な土地とは毛色の異なる文化が醸成された。箱庭的空間で社会が平衡を保つためには、内部に充満したフラストレーションは自己完結させる必要がある。日本語はそうした列島の環境を色濃く受け、ガラパゴス的進化を遂げた言語のひとつだろう。

しかし、世界が小さくなった近代において、そうした真綿でくるむコミュニケーション術はかならずしも正解とはいえない。私自身、トルコ人、アメリカ人の知人とのコミュニケーションにおいて、その反応の違いにちょっとした感動すら覚えたものだ。歯に衣着せぬ物言いで相手にぶつけても、不快な顔をされるどころか、好戦的なガッツを褒めるような言葉まで返ってきた。種々の民族的特性を総合する知の必要を感じたものだ。

明治の一時、列強と伍する「力」を欲した日本は体質に合わない欧米のミメシス(模倣、再現)を徹底的に行い、欧米擬態を遂げた。むろん、それは皮相的なミメシスであった。 その後、日本史上最大の敗北を喫したこの国は、今度は「世界」を交換不可能な「列島」に見立てる。地球規模で角の立った対決は避ける民族へとその特性を拡張したのだ。それは世界平和の精神である、と現実を糊塗し自欺に引きこもる仕儀となった。

引きこもった戸の外では、脅威に包囲されている。列島を焼尽せんとする力に睨められている。にもかかわらず、国民は一世紀ちかくも惚けて譫言を吐きつづける。――日本は治安もいいし、メシもうまい――。視野を広げると恐怖の対象が入ってしまう。だから戦後数十年かけてガラパゴス的に進化したのだ。マイオピック(近視眼)な視力へと自己調整したのだろう。

こうしてあらゆる「衝突」にたいする「phobia(恐怖症)」の反応が時間の効果を経ていよいよ文化・気風となり果せた。

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日本人が美徳とすることが、グロテスクな側面をもつ世界にもそのまま通じると考えるのは魯鈍である。むしろ「お人好しとはバカの別称」が世界標準だと思うぐらいでちょうどいい。

地政学的論理なき似非国防観

「専守防衛」が一国独自のポリシーで完結すると考えるなら、とりあえず地政学について書かれた本を一冊読むべきである。それまでは「専守防衛」などと気安く口にするものではない。

「専守防衛」について、防衛白書では相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その防衛力行使の態様も、自衛のための必要最低限度にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られるとしている。

これを「パワーレス国家こそ平和国家のあるべき姿」と首肯するなら、その思考はいちじるしく論理に欠いている。「専守防衛」という概念が地政学的論理を無視しては成立しないことを、わかりやすく図にしてみよう。

4つの柱(A~D)をそれぞれの国とその「パワー」としたとき、A国が掲げる「平和主義」は実質的には「空想的平和主義」である。「専守防衛」すらかなわぬ望みだ。 自衛のための必要最低限度の防衛力、その基準は想定しうる有事の相手から相対的に割り出されるのが論理である。

日本は防衛費を国民総生産(GNP)もしくは国内総生産(GDP)の1%以下に抑える「防衛費1%枠」を政策としている。この数字の根拠が想定しうる有事の相手から相対的に割り出されたものでないかぎり、「防衛費」とは名ばかりの予算である。

そも、防衛力の基準をどこにおくかといえば、「バランス・オブ・パワー★1」である。1890年代、ドイツの海軍を起源としてはじまった理論を「冷戦観」のはじまりとするなら、現在は未だなおその延長線上にある。すなわち恒久的戦時社会と恒久的戦時経済という「冷戦構造」にもとづく国家関係を刷新するに至ってはいない。

ここでいう「バランス・オブ・パワー」のパワーとは「支配力」のことだ。火力(軍事力)のことのみを指すのではないし、憲法前文第2項の平和を愛する諸国民の公正と信義のことでもさらさらない。「支配力」とは、事物の在り方を左右する強い影響力のことであり、ここでは「支配欲動の実現力」といってもいい。軍事力は単に「パワー」の表出のひとつにすぎない。

ちなみに「支配欲動の実現力」であるから、実質的には「パワー(power)」より「フォース(force)」が適当な言葉だろう。以下「フォース」とあらためよう。

現実的・巨視的にみて、文明社会の統治はカネと権力を中軸にした「フォース」によって行われる。平和を愛する諸国民の出番などない――平和を愛する諸国民の公正と信義が実際的に世界を統治している事実をみたことがあるだろうか――。

真に「専守防衛」を掲げるのなら、地政学的論理にもとづく「フォース」の「等質性」にもとづかなければ空語である。『Global Firepower★2』のランキングにおいて日本の軍事力は上位(5位/2021年度)であるから防衛力は十分だという見解がある。しかし、地政学にもとづく視座に立てば、みるべきは世界ランキングではなく地政学的ランキングである。

現在、日本にきわめて大きな影響力をもつアメリカ(同ランキング1位)、ロシア(同ランキング2位)、中国(同ランキング3位)が上位3位を占める。つまり相対的能力では日本単独での専守防衛の実現可能性は低いとみえる。

では、同盟関係にあるアメリカの軍事力を前提とした専守防衛はどうか。そも、同盟における論理、あるいは防衛力の確度というものに無頓着すぎる意見を多くみかける。日米安全保障条約においては、同盟の発動にはアメリカの連邦議会の決議が必要だ。その際、日本のプレゼンスが表も裏もなく赤裸に評価されよう。

そのプレゼンスとは、ホット・ウォー(実戦)時より、むしろ平時のコールド・ウォー(冷戦)時に形成されるものだろう。つまり平時において軍事的・経済的、その他影響力を発しないものが、土壇場で同盟間における価値など示せるはずがないのだ。結果、一国で価値を示せぬ国は連帯での価値も相応となり、同盟価値を下げる仕儀となるだろう。

「核の傘」についてはどうか。「傘」だけに、天気予報で喩えよう。天気予報では「傘指数」という、傘の必要度をあらわす指数があつかわれる。ここで、高めの傘指数から天気予報士が「折りたたみ傘をお忘れなく」と言い、つづけて「ただし、核の傘ではなく」と言う。当然だ。なにせ、歴史上一度も開かれたことがない傘なのだから。予報士としては確度のあやふやなアナウンスはできない。

平時の国際間の葛藤を交渉で処理する外交にも、軍事力や経済力といった「フォース」が必要だ。文言の解釈を飴のように自在に変形させ、無限の解釈からどの解釈を採択するのかは「フォース」によって決まるからだ。力なき外交の「交渉」などポーズにすぎない。力なき外交の「合意」など銃を突きつけられて首を縦に振ることだということは歴史の常識である。

地政学的にもきわめて複雑な位置にある日本だが、その状況で軍事にアレルギー反応を示す。パワーレス国家こそ理想国家であると信じ、軍事司法制度すらない。これはもう異常といっても過言ではない。

「フォース」とはホリスティックな戦略力である。軍事力は数多ある戦略カードの1枚にすぎない。しかし、日本は世界標準に伍する国家として欠くことのできないこの「フォース」への洞察を放擲してしまった。「恐怖症」という神経症を患い、理性であつかう術を忘失してしまった。夢心地で、お花畑に種を撒くことに精を出すのである。

刀は抜くべからざるもの――刀の手入れと鍛錬を忘れぬことが、結果的に刀を抜かずに済むという逆説的な事実。それをこうも忘失してしまうとは、かつて武士道があった国だとは今では信じがたい。

★1 バランス・オブ・パワー――19世紀以降、欧州の国際秩序を維持するため、各国間の軍事力に等質性を与える秩序モデル。突出した脅威の発生を抑制し、地域不安や紛争の誘因を低下させることを目的とし考案された。MAD(Mutual Assured Destruction、相互確証破壊)はこのモデルを核戦力にも敷衍したもの。

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戦中の零戦(三菱重工業、中島飛行機)の系譜は絶たれた。日本の空を守る機体がマクダネル・ダグラス社(現ボーイング社/アメリカ)となって以降、日本の航空産業は牙を抜かれた
日本の空を守るのは、アメリカ製のお古の型ばかりだ。軍事力上位国が即時投入可能な第5世代戦闘機(アメリカ:F-22、ロシア:Su-57、中国:J-20)を保有する現在。日本は案の定アメリカのF-35にすがるのみだ(写真はF-22)。このことはつまり、次世代の技術開発に必要な技術系がますます廃用萎縮することを意味する。

★2 『Global Firepower』による軍事力ランキング(2021)

国名 順位 指数
アメリカ 1 0.0718
ロシア 2 0.0791
中国 3 0.0854
インド 4 0.1207
日本 5 0.1599
韓国 6 0.1612
フランス 7 0.1681
イギリス 8 0.1997
ブラジル 9 0.2026
パキスタン 10 0.2073

参考GlobalFirepower.com

『Global Firepower』では潜在的なものをふくむ数十項目の重層的なパラメーターから割り出している。しかし、さらに潜在的なものとしての世論(国民の国防観念、気風)、法的背景といったものも総合的能力を左右するだろう。日本は「5位」となっているものの、単純な比較はできない。

不戦の契の行く末は安楽死か

私という人間は、「問題と向き合うのが苦手、嫌いだ」という御仁から受けがわるい。昔からそうだ。ここまでさんざ書き連ねておいて時既に遅しとは思うが、最後はせめて耳に逆らわない言葉で〆(しめ)よう。お花畑の空気を読んで。

攻めもしなければ守りもしない神経症的不戦の契の行く末は、おそらく安楽死的結末だろう。しかし心配無用。国家の心肺停止まで、まだ時間がある。それまではテレビや激辛の香辛料でもんどりを打つ人間の動画でも観て、ぬるく延命すればいい。そういえば昔、「カウチポテト族」なんて言葉もあった。あれなんて今こそトレンドになるのではないか。

日本人が好む「平和の祭典」ももっと増やしたほうがいいだろう。1985年のUSAフォー・アフリカによる『We Are the World』は、そのメッセージも、曲としても素晴らしいものだった。あふれんばかりの平和の雰囲気に涙したものもいることだろう。今こそ『We Are the World』をアイドルグループかなにかがカバーして出せば売れるのではないか。

そういえば、『We Are the World』の1985年といえば、アメリカはレーガン政権だった。ソ連の脅威が低下したことを見計らい、ゴルバチョフと戦略核の50%削減努力を大筋で合意。中距離核戦力にかんしても仮条約を締結した。あれはもしかすると『We Are the World』と合唱したのチカラだったのかもしれないな。きっとそうにちがいない。そういうことにしておこう。

あれが虎視眈々、虚々実々のニュークリア・ゲーム、いわば「平和の茶番」だったなんて、言っちゃだめだ。実際は新たな核時代へ駒を進めた出来事だなんて、お花畑では口にしちゃいけないな。

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敗戦後、平和のイメージに頭のてっぺんから足の爪先まで浸かりきった日本の多くの世人。その実は、アメリカの保護領として、Fragile Flower(ひ弱な花)として、ビニールハウスのなかで幻想の徒花と戯れていただけである。――日本は治安もいいし、メシもうまい――。そう言いつづけている間に集(たか)られ、首根っこを押さえられ、臥してなお幻想に戯れている。

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