大混沌(カオス)時代

混沌カオス時代
大分離と大統合の狂乱

2022年最初の記事は「大混沌カオス時代」。「大」を付けたくなるほどの混沌カオスとは。社会運動で掲げる「レインボー」は、はたして本当に虹色の世界につながるものか、怪しいものだ。真実の命に従わぬ「科学」。内実のともなわない「民主主義」。もはやトレンドになった「罪」。こんな世の中をどう生きるか?どうもこうもない。こんな時代を「まともに相手にするな」。

大分離と大統合の狂乱

混沌カオス一色になるだろう――。

よく知られていることだが、さまざまな色の絵の具をすべて混ぜ合わせると、黒く濁った色になる。「減法混色」の原理だ。規範の流失した世相の多様性という多色は、という規範の観念なきカンバスに無闇矢鱈に放り出す絵の具にひとしい。黒く濁った色になるだろう。

科学ですらが混沌カオスにのまれている醜態をさらけ出した、新型コロナウイルスにまつわる騒動によって。ワンの副反応による死亡には、一時金4420万円が支払われることになっていた(予防接種健康被害救済制度)。死因の可能性を追求するのは科学の使命であったはずだ。しかし、科学はもはや真実の命に従わぬ「ずぼら」なありさまである。

冷徹な規範としてあるべき科学がプロパガンダに傾き、世間を混乱と騒擾に陥れる。新型コロナウイルスは未曾有の危険なウイルスだという科学と、その実体をみるに恐怖が過剰に煽られているとする科学。つまり科学もすでに分離し、認識共同体の看板に堕している。それら科学の牽強付会★1な態度は、詐欺師の不快な態度そのものである。

かつての文化も合理の新星だった科学をも失い、アノミー(無規範)が瀰漫びまんする。いよいよ大分離する世間。それを児戯にひとしい大統合のわざによって統治せんとする文明社会。踊る阿呆に見る阿呆、「大混沌カオス時代」の本格的幕開けである。

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大混沌時代の分離は信念体系、認識体系の分離である。規範を失った分離は統合不可能、二度と交わらぬ道だ。統合不可能な分離にたいして仕掛けるグローバルな大統合が、混沌と分離を極度に、加速度的にするだろう。

★1 牽強付会(けんきょうふかい)――自分に都合のいいように無理に理屈をこじつけること。

欺瞞を暴露する大混沌時代(1)――
民主主義はステルス専制(帝国)主義

「大混沌カオス時代」はその実、欺瞞であったことが暴露される時代でもある。「民主主義」もそのひとつだ。戦後日本のイナーシャ(慣性、惰性)にのまれた世人には雲をつかむような話だろうが、民主主義は金科玉条の主義ではない。

民主主義はすくなくとも最悪の主義ではないと思われるという消極的結論に導かれた次悪的主義である。ああ言えばこう言うわがままで利己的な大量の人間をどうにかなだめすかすのに、やむなく採られた妥協主義にすぎない。

そも、「民主」という言葉はもともと「民」の「主」、つまり「君主」の意で用いられたものだ。近現代、とくにアメリカによって掲げられた民主主義の旗幟によって、「一国の主権が人民にある主義」と再定義された――かのようにみえた――。しかしその民主主義イメージにすぎない。民主主義は変わらず「民」の「主」である「君主」のための主義である。その基幹的機序は「マス・ポピュラリティ(大量人気)」にある。

現代の「民」の「主張」は「マス・ポピュラリティ(大量人気)」からくる。そのポピュラリティ(人気)の淵源はといえば「メディア」である。そのメディアを牛耳るのはカネの世界の大総帥である。メディアは統治の手段にすぎないのだから、「民」の「主」、つまり「君主」のための主義であるというのが民主主義の裸形である。

「民」が自発の統治と大言してはばからない民主主義だが、その自発は似非の自発を多分に含んでいる。最大多数はメディアによる意識下への暗示によって統御される、見えざる君主の思惑どおりのオートマタ(自動人形)にすぎない。それゆえ人気主義ポピュラリズムからの民主主義デモクラシーの出力はことごとく「民」を劣等に据え置くことになる。だが、その主たる原因がメディアマニアック(メディア狂)たる民自身にあることに民は一顧だにしない。

現代の民主主義はメディアが咲かせた徒花にすぎない―― こんな見え透いた単純も見ず、世間は民主主義を取り戻せなどと題し、その内容は個人の自由性や本来性を謳うという頓珍漢。目も当てられない。そんなよまい言は傍耳に聞くのもうんざりするものだから、私の外出に靴とイヤホンは欠かせない。

民主主義なるものが真に「一国の主権が人民にある主義」と定義されるために為すべきことが為されていない。馬鹿の一つ覚えのように「モダン」だの「トレンド」だのにうつつを抜かし、ひるのごとくスマホに、メディアにへばりつく。こんな魯鈍と映ずるありさまで真の「民主主義」が手に入るなら、歴史が流した血も苦痛も、無意味である。 その血を想えばこそ、苦痛を想えばこそ、「民主主義? 無理、無理」と言おう。

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ちなみにひるは雌雄同体。うつむきながらスマホの画面にへばりつき、LGBTのレインボー旗の下を歩く世相にはあつらえ向きのメタファーである。
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民(マス)の養分はメディアである。根から観念操作されたマスの咲かせる民主主義という花は、メディアの支配者の思い描く花となる。

欺瞞を暴露する大混沌時代(2)――
トレンドになった罪

ガンディーは「七つの社会的罪」をこういった。

  • 理念なき政治(Politics without Principle)
  • 労働なき富(Wealth without Work)
  • 良心なき快楽(Pleasure without Conscience)
  • 人格なき学識(Knowledge without Character)
  • 道徳なき商業(Commerce without Morality)
  • 人間性なき科学(Science without Humanity)
  • 献身なき信仰(Worship without Sacrifice)

なんとまあ驚くべきことに、現今の社会のおおよそは「罪」でできているといっても過言ではない。

私は日頃「これ以上、人間がおかしくなると、地球もいよいよ生命の星としての価値はなくなるよ」と冗談めかして言っている。しかしこれはあながち冗談でもない。

人間は気が遠くなるような時間、より良く在るための規範を求め、その規範を彫琢してきた。宗教、法、文化、道徳、常識、科学等において。それらが今、底が抜けたように流失しつつある。あげく残りつつあるものが「罪」とは、なんと情けないことか。

旧約聖書では神の怒りにふれて滅ぼされた「ソドム」と「ゴモラ」だが、たったふたつの街だ。現今では世界中に「罪」が蔓延っている。大混沌カオス時代の最期があるとすれば、神の怒りではなく、おのれらの愚かさに滅ぼされるだろう。

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この先はおそらく「長引く嵐の時代」になるだろう。これまでの文明・社会活動の反作用としての「混沌」が平衡点に達するまでには、長い時間を要するのではないか。

混沌カオス時代をどう生きるのか

混沌カオス時代とは、必然の分離の時代、漂流の時代といえる。人間が幾千幾百の星霜をかけて築き上げてきたを思い付きにひとしい改革だのトレンドだのでぶち壊したのだ。むろん、を失ったものは風雨に身をさらすことになる。当て所もなく彷徨うそのさまが「分離」であり「漂流」であり、その先にあるのは「猛省」か、もしくは「破滅」だろう。

自作自演、自縄自縛の悲愴な自慰行為を、一体あと何年、何十年つづけるおつもりですか、と問いたい。自ら住処を壊しておいて、「淋しい」だの「ぼっち」だのと嘆いてみせるより、やるべきことがあるだろう。

銀座の土地ははがき一枚分で60万円以上するというのを聞いた記憶がある。大混沌カオス時代では私がわたしでいられる場というのは値千金の価値がある。銀座の土地の価値の比ではない。それがたとえたった一畳の空間であっても、病んだ文明の大空間より己が生と精神に資する聖域となる。それは知性体(意識体)として生きる、独一個人としての実践の場である。

人は今後ますます規範を失うだろう。科学までもが漂流する時代。このような時代にあっては、もはや「説得」も「議論」も無駄である。説得は「詐術」に堕し、議論は「諍論じょうろん」に堕する。そうとなれば、失ったものの価値の大きさを認め、ゼロからやり直すように自ら始めるしかない。

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