空蜂球|秋影書房

空蜂球
日本のこれからと危機

ニホンミツバチに観る「ニホン」という位相。そこに生きる「ニホンジン」の危うい未来。2022年最後の記事。

蜂球

ニホンミツバチは天敵であるオオスズメバチに対し、「熱殺蜂球★1」というアクロバティックな対抗策をもつ。一匹のオオスズメバチを数百匹のニホンミツバチが包み込み、筋肉をふるわせて体温を上げ、蒸し殺す。

日本にはニホンミツバチのほかにセイヨウミツバチがいる。セイヨウミツバチはニホンミツバチより強い外来種だが、オオスズメバチへの対抗手段をもたない。つまり、ニホンミツバチとセイヨウミツバチ、オオスズメバチの勢力争いは三すくみのバランスとなる。「蜂球」はニホンミツバチにとって「自存の策」なのだ。

★1 熱殺蜂球――熱殺蜂球の内部の温度はおよそ48℃に達する。致死温度がおよそ50℃のニホンミツバチは耐えられるが、致死温度が45℃のオオスズメバチは耐えられない。

ニホンという位相

ニホンミツバチにニホンという位相をみる。ニホンジンもまた、白人や黒人に比しておよそ体躯が小さく、単体で強力な人種ではない。しかし、ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれた現象にみるように、あるいは過去の戦争にみるように、群れると化ける面がある。

総体で力を発揮する位相――。そう仮定すると、古来、一神教ではなく八百万の神々が信仰の対象であったこともうなずける。個人性をイマイチうまくあつかえず、空気を読んで総体との不器用な平衡をとる、というのもうなずける。

衰運の下り坂をゆくのもむべなるかな。戦後、欧米の擬態ミメシスにともない、総体をもって力とする統辞法は流失。擬態のまま、偽の型のまま、グローバリズム世界でずるずると下りつづけている。

「蜂球」を忘れたニホンミツバチは、セイヨウミツバチとオオスズメバチの餌食となり、絶滅するだろう。

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ニホンという「国家」のみならず「世界観」を考える必要がある。

ニホン型バランスを考える

ニホンミツバチが「蜂球」なくして生き残れないように、ニホンジンも十八番なくしては生き残れないだろう。上述したニホンの位相の仮説にもとづけば、ニホンジンには総体の力「総力」が必要だ。それは翼賛体制や同調圧力のような閉鎖的熱狂の類ではない。もっと日本の歴史の全体を鳥瞰してみられる、なだらかな文化的総力のことだ。

ニホンの位相に馴染むかたちでの個人性と公性の調和、相乗効果を文化的総力と定義しよう。そのためには個人性と公性の葛藤を超え、昇華しなければならない。あるいは、歴史に点綴する美点を現代ナイズする必要があるだろう。個々人が空気をよむという妙ちきりんな自閉に苦悩している場合ではない。

先の見えない下り坂――単純な欧米の擬態がニホンの位相に馴染まないのではないか。ニホンの地神との相性がわるいのではないか。幾星霜を経てあり続ける列島を生命に見立て、その恒常性というものに思い馳せる必要があるのではないか。そも地球も生命に見立てられるのだから。

ミツバチからヒトまで――総合的な視座において、ニホンはある種の位相、ファウナ(動物相)といえる。国のスケールをもちだして言えばだのだの、狭隘な視点でガンを飛ばし合っている場合ではない。イキモノとして、今此処の「蜂球」のデザインに頭なやますべきである。それができなければニホンミツバチよりも早々に、ニホンジンは絶滅するだろう。

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事物には生得――持って生まれたものがある。ニホンのそれは何なのか、観照すべき時だ。今、崖っぷちである。

空蜂球

ニホンジンバチという種があるとしよう。蜂球(自存)を放擲した彼らは、まずハタラキバチとなる。ハタラキバチの生殖腺は退化し、産卵能力を失う(少子化)。彼らは「ジンセイ100ネンジダイ、ロウゴシキン2000マン」を唱えながら、職蜂としての自己意識を留処もなく深化させる。こうして冗長なラスト・ジェネレーションとしての生を無自覚に生きるはめになる(無意的高齢化)。

自動症的な蜂球の習性、その残滓が「空蜂球(からほうきゅう)」をつくる。メディアの調子、技術の小道具、単純な情操、戯謔と諂笑を包み込む。やがて、空蜂球の中でおのれらが微温死するであろう。

只々、もったいないと言うよりほかない。「よいお年を」という言回しも、もはやあてこすりに聞こえるありさまである。

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