群衆心理と群衆の運命

群衆心理と群衆の運命

いつまでたっても世の中のおさまりがつかないのは、政治のせいでも世界を裏で牛耳る組織のせいでもない――ギュスターヴ・ル・ボンの名著『群衆心理』を参考にしながら、世の最大媒質「群衆」の変えがたい性質と、そこからの運命を論じる。「群衆」もまた最初から、必然の衰滅を胚胎した運動であることを知らなければならない。群衆というだらしないバケモノについての基礎知識である。

個人格の消失した群衆人

(前略)
意識的個性の消滅、無意識的個性の優勢、暗示と感染とによる感情や観念の同一方向への転換、暗示された観念をただちに行為に移そうとする傾向、これらが、群衆中の個人の主要な特性である。群衆中の個人は、もはや彼自身ではなく、自分の意志をもって自分を導く力のなくなった一箇の自動人形となる。
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ギュスターヴ・ル・ボン/櫻井成夫訳、『群衆心理』講談社学術文庫、1993年

ワクチンを打つつもりでいる者にその考えを訊けば、「みなが打つから」だという。そうか。みなが覚醒剤を打てば、同じように打つ者だということを知って、その者との付き合い方を考えるよすがにはなる。

個人にたいして言葉をなげかけているのに、「みな」すなわち「群衆」を代表して話す者。彼らは拙劣な意見すらもたぬオートマタ(自動からくり人形)にすぎない。そんな個人格の消失した「群衆人」、マスマン(mass-man)の傾眠の譫言を聞くぐらいなら、会話などしないほうがいい。

いっそ「もちろん打つとも。なにせ、ファイザー製薬といえばバイアグラでずいぶんと世話になった。私はアレのおかげでをとりもどすことができたんだ。以来、同社への信頼は揺るぎないものだよ」とでも答える者のほうが人間としてはるかに上等であり、話を聞く価値がある。

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何彼につけ「みな」を意識して語る者に、彼個人を特定して話す意味はない。それならば統計を相手にしたほうが手っ取り早い。

群衆の時代の終わり

群衆は――ル・ボンをはじめ種々の優れた研究によって――群衆を知りつくした文明の支配層、また技術によって支配される。古典的名著『群衆心理』の著者ギュスターヴ・ル・ボンは、その序文で群衆を支配することは非常に困難といった。しかし、それから約1世紀を経た現在において、群衆が支配されずにいることは非常に困難になった。

単に数の破壊力しか持ち合わせていないが、しかしその破壊力ゆえにかつて王から神権を簒奪した群衆。だが、今となってはその破壊力は――巧妙に、技術によって――群衆自らに向けられ、群衆自らを脅す。そして常住坐臥、自ら帰属する群衆に睨められながら、群衆の一部に擬態したまま、自らの本性を見定めることもなく死んでいく。

かつての、数で王に勝った論理はもはやない。その数を、暗示を、随意に操作しうる技術によって、群衆の時代はすでに終わっているのである。そしてこのことが、いよいよ人間の終末に向けたターミナル・ケア(終末医療)の必要性を私の脳裡にしきりに訴えかけるのである。

「種」という生存戦略からなる位相において、群衆は人畜異としないアポリア(解決できない難問)であると分かっている。しかし、個人として、その薄気味悪さに、もがかずにはおれないのである。

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「メディアこそが真実を伝える」という信念。現代において、メディアが最大のカルトである。

人間にプリセットされた2つのモード――
個人と群衆

(前略)
群衆を構成する集団のうちには、各分子の総和や平均のようなものは少しも存在せず、種々の新たな性質の発生とその配合があるのである。これは、ちょうど化学の場合と同様である。例えば、塩基と酸のような元素と元素とが接触させられると、化合して新たな物質をつくり、この新たな物質は、これを構成するのに用いられた元素とは異なる特性を具えている。
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ギュスターヴ・ル・ボン/櫻井成夫訳、『群衆心理』講談社学術文庫、1993年

集合写真などでV(ピース)サインをする徒輩は多いが、私はあの「V」を「vanish(消え失せる)」の意ととらえる。自我も個性も消え失せたポーズということで、私は断じてあのようなみっともない真似はしない。もし、したとしたら、実際よりもはるかに、別人のようにに見えることだろう。

上述の「みながそうしているから」という、すなわち群衆の亜粒子としての半無意識。無意識にかぎりなくちかい消極的意識状態。無難とされるあのポーズはそこからくる。

我々が日頃「個性」とよんでいるものは「意識的要素」のことだ。知性や感性の優劣は意識的な基準からきており、反対に「無意識的要素」の本能や情欲、感情において「個性」はほぼない。よって、一般的に意識的個性――および意識的精神の表象としての文化や道徳――はそれらを「獣性」ともよび、隠匿する。あるいは文芸などによって意識的価値にまで高められることを称美する。

はなはだしく相違する意識的要素、すなわち個性が「vanish(消失)」し、共通の無意識的要素のみがあらわになる。この「モード(様式、方式)」が「群衆」である。それは一般的に価値や意味において美質から遠ざかるもの、美質なきものとされる。

それゆえ群衆に知性や感性の鍾美をみることがない。群衆の掲げる善悪の観念は、往々にして少年並の浅薄で直情的なものとなる。端倪すべからざる人物が、群衆にあってはまさかのになる。Vサインが「感染」した群衆の写真が美術館に飾られることもない。

このように尋常平凡な性質が共通に存在するということ、これによって、なぜ群衆に高度の知力を要する行為が遂行できないかの理由が説明される。それぞれ専門を異にする優秀な人物たちの会議で採決される一般的利益に関する決議が、愚か者の会合で採決される決議よりも、きわだって優れているというわけではない。実際、この優秀な人物も、すべての人が所有するこれらの凡庸な性質を結合させ得るにすぎない。群衆は、いわば、智慧ではなく凡庸さを積み重ねるのだ。
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ギュスターヴ・ル・ボン/櫻井成夫訳、『群衆心理』講談社学術文庫、1993年
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人というものは群衆になると、どういうわけか、かなりの高確率でになってしまう。「スーパーマン」でも「クリプトナイト」の前ではヘタレになってしまうのと似たようなもので、法則的現象である。