「エゴ」という言葉にみる群衆の混乱

ところで、現在、エゴ(ego)という言葉はネガティブに定義され、忌避される言葉となっている。「エゴイズム(egoism)」と辞書で引いても「利己主義、自己中心主義」とある。しかし、本来のエゴ(ego)の意味は「私、自我」であって、利己的精神のことではない。つまりエゴは「意識的要素」であり「個性」のことである。

「個性」となれば、「個性が光る」や「個性的で良い」などと正価値によった扱われ方をする。こうした言葉の分裂に、意識的要素(エゴ)を無意識的要素(マス)へと埋没させんとする無意識的葛藤をみる。意識と無意識の間で迷想する者がダイバーシティ★1だの個性を認め合うだの、カメラの前で「Vサイン」をしながら言うのだから片腹痛い。

★1 ダイバーシティ(diversity)――個人や集団間に存在する「さまざまな違い」、すなわち「多様性」を制度や労働市場等で活用しようとする変革的運動、マネジメントアプローチのこと。

支配された暗示

(前略)
群衆は知能の点では単独の人間よりも常に劣る、と。しかし、感情や、この感情に刺戟されて引き起こされる行為から見れば、群衆は事情次第で、単独の個人よりも優ることも、また劣ることもある。すべては、群衆に対する暗示の仕方如何にかかっている。
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ギュスターヴ・ル・ボン/櫻井成夫訳、『群衆心理』講談社学術文庫、1993年

ル・ボンは群衆が知能の点では個人よりも常に劣ることを認める。しかし「暗示」の如何によっては「野蛮人」のみならぬ「英雄」への道筋もあると説く。だが、現今の状況からの私の考えでは、群衆の重要な分岐器ともいえる「暗示」は、すでに支配層の手中に落ちている。「暗示」が今日ほど完全に掌握されたことは、おそらくなかったのではないか。それは「技術」が可能ならしめた。

埋め込まれた恣意的暗示が常住坐臥、群衆を籠絡する。メディア、教育、食料、医療、制度、社会構造、ありとあらゆる時間と空間に随意に恣意的暗示を埋め込む。今やこの世に生を享けた瞬間から恣意的暗示に暴露する。父母もまた、既にその暗示の無意識的奴隷となっていれば、その影響力は赤子にとって父母以上のものだろう。恒常的な恣意的暗示により、彼らはすでに「システムの子」であり「教義ドグマの子」である。

暗示にまで完全な支配がおよぶまでは、正価値的な暗示もあった。時に群衆は道徳や文化、伝統といった基準からもたらされる暗示に従った。低級な本能を拘束し、高尚な道徳行為へなだれ込むこともあった。およそ破壊力しか持ち合わせていない群衆のその破壊が、正価値となるような次代への破壊となったことがあった。それが文明の発展となり、歴史の美点ともなった。

しかし、現今、世界の主流はそうした群衆にとっての必要拘束からの自由化であり、ヴァンダリズム(文化破壊の野蛮)である。ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)のゲッベルスが体系化したように、暗示を統御すれば数も物の数ではなくなるのだ。かつてない暗示の支配。このことは、現在これからの群衆を予測するうえで最大の要因でもある。

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「群衆」とは「暗示」の受容体である。「マス」を対象にしたものはほぼすべて「暗示」をふくむ。

技術革新、ニューネスという暗示

(前略)
群衆が受け入れる判断は、他から強いられた判断にすぎず、決して吟味を経たうえでの判断ではない。この点で、群衆の水準を越えない個人も少なくない。ある種の意見が一般化しやすいのは、大部分の人間には、自身の推理にもとづく独自の意見を生み出すことができないという事実に、とりわけ原因しているのである。
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ギュスターヴ・ル・ボン/櫻井成夫訳、『群衆心理』講談社学術文庫、1993年

技術はついに、技術のあるところ、あらゆる個人の「群衆化」に成功しつつある。技術は、自身の推理にもとづく独自の意見を生み出す能力のない人間の推理と意思決定を代行する。その結果、国籍、性別、世代、特性、職業、目的、空間、時間、あらゆる条件の如何を問わず、個人を群衆に定位させる。多数派が、常に群衆の水準を越えない個人で占められているのではなく、もはや個人にして群衆の相似なのである。

SF映画等にみる、進歩、進化の概念はじつに滑稽きわまりない。そこにみる進歩、進化の定義は、技術的な側面のみに近視眼的に傾いている。進歩人、進化人の象徴としての外宇宙生命体は、つまりテクノマニアック(技術狂)をきわめし者として描かれる。この偏屈で狭隘な文明観が是とされる理由は、テクノカルトの刷込みである。

今や技術は、制度、慣習等の体系的放棄と新プロセスの間断なき反復運動――革新――の機関である。それは人間を本来性から剥離させ、現実から耐久性デュアリティを奪う人間のデラシネ(根なし草)化であるため、カムフラージュの必要がある。技術は常に「創造的破壊」の脚光を浴びていなければならない。実際には「破壊的創造」という妖光であっても。ここでもメディアが技術の自己満悦的未来の演出と詐術とを担うのである。

流行語のような「スマート(smart)」を冠する事物の実際は「smattering(なまかじりの知識)」が言い得て妙である。刹那的発想から名づけられた空語のようなものであり、ごく短期のうちにニューネスにとって代わられる程度の代物である。

技術の暗示によって恣意的に操作された個人(群衆の相似)主義は、純然な個人主義ではない。デモクラシー(民主主義)とも似て非なる、それはマスクラシー(群衆主義)であり、その中核はステルス専制主義である。

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現代の多くの人間は、技術の進歩、ニューネスそれ自体が価値であるという暗示にかかっている。液晶の青白いバックライトにうつむいた顔面を炙られながら、技術の幸福に蝕まれる。