黒い合理

技術や制度が「ブラック企業」をなくすことはないだろう。オフィスのパソコンをどれだけ高性能にしようと、新たな制度を作ろうと、「ブラック企業」はなくならない。それらを前提としたブラック環境へとアップデートされるだけだ。

「ブラック企業」における労働は構造に当てはめるだけの「儀礼化」であるため、「認知」がまともに機能しない。「構造的認知症」といっても過言ではない知能低下に陥っている。以前、実験的な意味もふくめ、組織で携わった仕事と同等の仕事を一人でやってみたが、半分以下の時間で終えた。儀礼的ではなく「一般的合理」にもとづいて事を進めたことによるものだろう。

ここで「合理」といわず「一般的合理」というのは、「ブラック企業」はある種、合理的な存在だからだ。企業が利益を追求する上で合理の前提となるのはステークホルダー、構造である。構造が儀礼的手続を要求するのなら、応えなければ利益を損ずる。つまり 一般的不合理と非効率、あるいはヴァルガリティの履行が彼らにとっての労働であり生産活動となる。合理がすでに腐敗しているのだ。

生産性ゼロ、否、むしろマイナスであると分かっていてもやめられない定例会議。裁量、タスクマネジメントは苦痛の公平性という同調圧力に圧殺される。労働現場における個人のプレゼンスは、仕事能力よりも構成員としての従順が優位にはたらく。ジョブ型雇用を取り入れたところで、専門的な知識やスキルの発揮方は郷に入っては郷に従え、慣習に従えと言う。コロナ禍における統治機関下の分科会を見れば象徴的だ。

余談だが、文明の都市化が進み、労働の徹底的な分業化、集団知への過剰な依存、技術による外部記憶化・思考化等が知性に影響した、という人類学的視座もある。 知性が極度に専門的、あるいはマイオピック(近視眼的)、もとい狭隘になったことが知性の劣化現象(ブラック化)として現れているのではないか、という仮説。

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頽廃という名の規範。

黒光りする未来

「ブラック企業」は、言わば卑俗なステークホルダーという環境への防衛機制として自ら神経症を施した人間の組織である。理性も感性も摩滅し、私憤も公憤も抑圧し、溜まりつづけるストレスに自欺をもってバーターしつづける。とどのつまりやさぐれた人間の集まりである。

合理化だの効率化だの殊勝な言葉が最も飛び交う時代に、きわめて不合理で非効率なブラック労働が標準化するという皮肉。正常化しようにも、日本の労働観に回帰点が見当たらない。構造的認知症は自己批判すら差し向けない。こうなったらもう、外圧によってホワイト化を押し付けられることぐらいしか変化の道筋はない。

しかし、それは期待できない。なぜなら日本はこの先、世界の下請市場へと傾いていくであろうから。日本のブラック企業文化は世界のヒエラルキーにとって都合がいい。経済は金融次元に腐心し、より劣悪になる労働次元はこれまで同様、蚊帳の外におかれつづけるだろう。衰退国と途上国のちがいは下山と登山、向きのちがいであって同位相にある。

未来は、黒光りしている。

「ブラック企業の起源」は知的頽廃であり、構造の頽廃であり、その慣習化としての文化の頽廃である。黒腫はすでに全線(すべての戦線)で支配的であり、もはや自浄の見込みはない。やがて社会が、国家が錆びつき、段階的に崩潰していくことだろう。その過渡期をだらだらと流れている、モノトーンの現在。それは個人の、組織の、社会の自業自得である。

私たちにできることは、「ブラック」にどういう「態度」をとるのか。それは「アラモの砦★6」であり、「こころざし」、もはやそれだけである。

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★6 アラモの砦――アメリカのテキサス州サン・アントニオ市にある僧院跡。1836年、テキサス独立戦争中、クロケットら約200名の独立軍がメキシコ軍相手に立てこもり、全滅した。

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