商医工農|過剰医療と世人が建てた白い巨塔|秋影書房

商医工農
過剰医療と世人が建てた白い巨塔

「技術屋」とならび「健康」を売りにした「医術屋」がここまで肥大したについては、文明的必然というより文明由来の大衆心理からの必然と迂回して言い回さねばなるまい。

商医工農

現在(2025年3月)、世界時価総額ランキングでは、 Apple(米)、Microsoft(米)、NVIDIA(米)、Amazon.com(米)などが上位を占める。これらはカテゴリーとして「テクノロジー(関連)」に属す。

産業革命以降、技術が価値の主柱である流れは、およそ200年間変わっておらず、所謂技術屋の地位が上昇しつづけることは文明的必然といえる。「テクノロジー」は単に売物として花形であるという時代的通念を考慮すれば、妥当な流れだ。

次いで目立つのは「ヘルス・テクノロジー」で、Eli Lilly and Company(米)、Johnson & Johnson(米)、AbbVie Inc.(米)などが目立つ。

技術屋とならび「ヘルス」つまり「健康」を売りにした医術屋がここまで肥大したについては、文明的必然というより、文明由来の大衆心理からの必然と迂回して言い回さねばなるまい。

かつて「士農工商」の「士」は、位階の最上位だった。しかし、現社会の位階構造は「商医工農」へと変化した。兵卒や官吏「士」も「工農」とおなじく「商医」が揮う金権により劣位へと追いやられた。

死ぬことと見つけたり――『葉隠★1』を標語とするような精神構造は、明治維新、次ぐ大戦を経て瓦解し、かつての「士」は欠位となり不在となった。代わって人生100年時代(笑)が大衆(という統一下階級)にとっての標語となる。斯くして「医」は「商」に侵出、最大級の派閥となった。

★1 葉隠――武士道を論じた書。1716年(享保1)頃、佐賀藩士山本常朝の談話の筆録。

世人が建てた白い巨塔

年に一度の人間ドック、結果にハラハラドキドキ――こんな世人は掃いて捨てるほど見てきた。そこまで生に潔癖に、過剰防衛気味になるのは、その生に何か相応の責任があるのだろう――との推量は必要ない。彼らの大方は通例に委ねているだけだ。皆がマスクを付ければ付ける、著名人が愛用しているから自分もそうするというのと変わらない。

無思考、あるいは無思考にかぎりなくちかい皮相な生の認識は、漠然とした「存在欲」という大きなもやとなり、その生をすっぽり包み込む。生きたい、何はなくとも生きていたい、意味も理由も分からないがという状態、これは仏教用語でいう「渇愛」だろう。捕らえようとすれば無我夢中で逃げる虫のような純然な生存本能でもなく、魯鈍の内に存在を志向する人間特有の生の認識は、これも仏教用語でいう「五欲」に己が生を自動運転させた人間の結論的態度だろう。

五欲、即ち食欲・色欲・睡眠欲・財欲・名誉欲は、肉体的・社会的生命もしくは種に資する、有利にはたらくというのは生物学的価値である。しかし彼ら世人の生は、なにも自覚的な生物学的価値を専らとして営まれているわけではない。にもかかわらず、最終的に、ためつすがめつ見定めた当人の意思によるものでもなく、改めて措定され価値づけられたものでもない、つまり価値判断すら行われない段階の空価値に、過剰に、執拗に、盲目的に固執する。こうして大量の彼らの無意識的志向、大量の空価値を支えるものとしての「医」が過剰に迎謁され、過剰な巨大さをもって聳え立つのである。

医師の平均年収は、勤務医が約1,461万円、開業医が約2,631万円(2023年度厚生労働省「医療経済実態調査報告」)となっている。この数字をどう見るか。彼らが暴利を得ているのではない。ほかならぬ世人の無思考、無理性、且つ取留めもなく肥大した存在欲が、それが為した構造が、彼らにこれだけの価値を、年収を、レクサスやポルシェを与えているのだ。彼ら医人を妬むのは御門違いである。

★ 白い巨塔――山崎豊子の長編小説。医学界の問題や腐敗を追及した社会派小説で、1966年の映画化以来、何度も映像化された。

ホワイトメア

白人による人種差別の恐怖を「ホワイトメア(whitemare)」というが、拙論では「白衣」を象徴的にしてホワイトメア(白禍、whitemare)といおう。

「生存」に先立つ価値や規範が消え失せ、生存が「目的」となり「手段」ではなくなった社会(関連記事『自滅の刃』)においては、生に直接的な影響力を揮う「医」、つまりが統治とその構造に実質的な行使権を揮うようになるのは必然だ。このことの顕著な現象は先頃のワクチンとその利益構造を見ればわかりやすい。技術の事業で成功した事業家が、医の分野へ侵出するのもうなずける。そしてたがの外れた力というものはかならずや肥大する、制限なく食べて痩せるものがないように。

このような「医」の肥大は「商」、「政」へも侵出、とどまることはないだろう。それを下支えする苗床として、国内ではざっと一億人(?)いるのだ。彼らはその観念において 、ぬるく、なだらかな、家畜の羊のように通例を食む常識の「信奉者」であり「支持者」である。ホワイトメアの側面は彼らにとって知覚外の次元だ。

生惚けて医にはしる――過剰な生欲豊かさの範疇からはみ出、存在欲という自動症オートマティズムへと変質した。そして
抗生物質を使用するかんたんな治療でピロリ菌すっきり除去、目指せ人生100年時代(笑)
身体に不可欠な常在菌をも無差別にジェノサイドすることをかんたんと言い切ってしまうこの世界観。より生きることは無条件に正義、より生きるために行うことは無条件に善いこと――その偏執、その狂性。長ければ長いほど良いとなった「生」は、トイレットペーパーと同じ位相にあることを一顧だにしない。

金は0.0001ミリにまで薄く延ばしても金だ。が、生が同様に価値を保てるかどうか、生の織文としての歴史を瞰れば覚悟できそうなものだが。

私も齢五十、終わりの伏線らしきものを身体に感ずるところはあるが、その延命処置が100にまで及ぶ理性的な理由というものは、三日三晩徹夜し思索しても見つかりそうにない。