死せる知性の道程
「知的失調症」は、理非の判断を受け持つ知性の部位の欠落、総合性の欠落からくることを述べた(骨格標本まで出して!)。それについてすこし掘り下げよう。
総合性を失った知性とその生は、細切れの短命を繰り返す定めにある。「人生100年時代(笑)」――有機物としてその間、脈打とうとも、その内容はと言えば、「知的に万死を繰り返す生」である。
そも人の「生」は「認識」といえる。意識に展開する内容と理解を「生」と「認識」する以外に「生」の拠り所を私は知らない。その意味で「生」は仮想か現実か、などという議論はナンセンスだ。人における仮想と現実の区別の基準など、せいぜい「認識」の持続・継続する時間的数量でしかない。
たとえば、人が「人生100年時代(笑)」のうち95年はかならず眠って過ごす生物であったとしよう。その場合、人は睡眠中の「夢」を「現実」とよび、その内容の向上にこそ努めることだろう。良質の夢をみるための薬物があれば、車より高くてもバカ売れだ。
知的生命である人間にとって、知的内容こそが生の実体である。知的内容とは、いわば知の文脈(総合)のことだ。つまり、時間のうちの知性の続きぐあいに生の価値をみるのが人間というものだろう。
この知性の文脈が、技術革新主義などによる体系の制御破壊・放棄と新プロセスの間断なき反復運動によって断割されつづける。するとどうなるか。「人生100年時代(笑)」といって、いわば頁数を増した書物だが、その内容はといえば、ただの雑記録となる。一貫性もなければ物語性もない、言語の積分的涵養もない、著者の同一性すらもとめられない、脈絡もなく現れては消える、夢を彷徨う生となる。
時間のうちの知性の続きぐあいに白痴となったからには、もはや病んだ知性である。なぜなら、現に認知症(痴呆症)を「病の状態」と捉えている。
そも人の知性も時間も所詮、人の仮構(仮想)にすぎない。が、その仮構における了解の外は人の知にとっての真空(虚無とよんでもよい)であることを人は意識的にか無意識的にか分かっているのだ。時間が離散的に存在しうると分かっていても、理性が仮構の産物だと分かっていても、了解にたいする矛盾に、人は堪え続けることなどできないのだ。
文脈を失ったものは「今」をも失う。なぜなら「今」という「点」には「今」それ自身を支えるほどの耐久性はない。単音では「譜」にならず旋律にならないように、もはや知は旋律を奏しえない。それは頭のちぎれた魚が電気的な刺激だけで反射的に動き回るのと大差ない。
今を生きる――けっこうなことだ。だがその「今」が散佚することなく、かたちを保っていられるのは、過去からの縦糸に組まれていればこそ、そこに在るのだ。
人間にとっての「今」とは、連続する過去の総合と、それを参照し予期される未来への意思と感情、意味や価値の選択、実践のことでしかありえない。そうでなければ「今」はフリーズするか、もしくは狂態を演ずる。連続する過去の総合を磁針と見なしてようやく、「今」が意味をもちえ、不確実な未来へのおおよその意思となり、基準となる。
改革・イノベーションといった過去の否定的刷新とは、選択において規範と制限を取り払うことだ。それは「自由」でもなければ「無限の可能性」でもない。いわば運否天賦のギャンブルに身を投ずるということである。AIだビッグデータだと礼賛する割には、文化や伝統、歴史といったもっとも実際的で参照価値の高いビッグデータを否定する。もはや分裂的である。
頽落への適合をめざす知性
パスカルは人間を「葦」に喩えたが、ここでは「水黽」に喩えよう。人間は絶えず動揺しつづける現象の水面に浮かぶ「水黽」のようなものだ。しかし、水面に映った像はあまりにも不安定で堪えられない。そこで、現象を超えた「実在」あるいは「規範」をもとめた。それが実際の「水黽」と「人間」の違いである。
しかし、現在ではその違いをもって人間と水黽を区別することはできなくなった。今や人間は動揺しつづける現象の不快を、自らの知覚を麻痺させることをもって超克とする。哲学や思想が陳腐化したのは技術の侵出によるものではない。それを語りうる知的構造が失われたためだ。
人間はもはや知的にヘッドレスであることを恬として恥じない。無秩序と無規範の現象の水面を、情報のガイドに導かれるままに行列する、もはや蟻や蜂の社会である。
知的骨格を失う「知的失調症」の瀰漫も、視座によっては進化といえよう。知的骨格を捨て去ることによって、水面を浮きつ沈みつ漂う海月のような知的体付きへと進化を遂げたのかもしれない。
水黽として水面で踏ん張る人を、余生であと何人、見つけられるだろうか。
知性という不可視の骨格に「頭」はついているだろうか。