モノゴトノ見カタ

モノゴトノ見カタ

世間一般の「モノゴトノ見カタ」の雑なこと、横着なことには呆れが宙返りをする。一体全体どうすればそんな投げやりなものの見方が身につくのか。彼らのものの見方をみるにつけ、少年誌の漫画やゲーム、映画は現代の聖典にまで上り詰めたようだ。つまりこれからの現実の価値や規範はそれらになぞらえられるということである。少年の少年による少年のための社会。もとい、視座欠乏社会。くわばら、くわばら。

知にたいする横着

Remember Pearl Harbor(真珠湾を忘れるな)――先の大戦における日本軍の真珠湾(米ハワイ州オアフ島)への奇襲攻撃にたいするスローガンだ。これを知る日本人は多い。

しかしTheir purpose, therefore, in going to war was largely dictated by securityを知る日本人は少ない。これは昭和26年5月、アメリカ軍事外交合同委員会におけるマッカーサーの証言★1である。「彼ら(日本)が戦争に進んだ動機は、大部分が自衛の必要に迫られてのことだった」――

要は知にたいする横着である。この証言を知る日本人が少ない理由は、簡潔に言い表していない覚えにくい句だからではない。勝者原理に都合がわるい、表に出にくい言葉というのもあるが、それだけでもない。ぼけっとテレビを見ていれば自動的に入ってくるもの、検索結果でせいぜい1ページ目あたりにある結論、それ以上は面倒臭いという横着である。視座の貧相である。

世間一般の「モノゴトノ見カタ」のなんと横着なことか。福島第一原子力発電所事故においても、コロナ禍においても、ロシア・ウクライナ戦争においても然り。現在の知識社会なるものは何のことはない眉唾物である。

★1 むろん、この証言がマッカーサー自身の純粋な認識であったかどうかを疑う視座も必要である。

視座の無限性

たしか小学生のころだったか、円周率の無限を知ったとき、「つまりモノゴトを見る視点は無限にある」と知った。立体次元において円は球であるから自明である。

モノゴトの真実というものは複雑でダイナミックなものだ。複雑な現実においては、静物画のような球がただそこにあるだけ、とはいかない。そこにさまざまな意味や価値、動き、葛藤が加わる。

球にそれぞれ正価値と負価値(明部と暗部)を設定する(下図)。これらは時々刻々と変化する動的なものである。

この時点ではそれぞれの球A、B、C、Dは相互に正価値である。

球Aが変化した。
球B、Dにとって球Aは負価値(反)となる。
球Cにとって球Aは中立となる。
変化していない球B、C、Dの相互に正価値な関係も潜在的に変化せざるをえない。
球Aにたいして中立をみる球Cと、球B、Dの関係は潜在的に変化する。

ひとつの変化は必ずといっていい、全体に、潜在にまで影響する。実際の現実の構造は、球が無数に、立体的・重層的に展開している。劇画のような善悪二元論理など存在しえないのが真相である。

しかし世間の実際、知識社会の中身はといえば、少年誌並の単純さと横着で埋め尽くされている。多元的構造のなかで平衡をもとめる視座において、善悪の前提は善悪からはやってこないというもっとも基本的な視座が脱落している。
アブナイ飛躍思考群衆心理と群衆の運命大混沌時代

視座の平衡の労を知る

無限の視座からの絶え間ない選択が世俗の人間の生の作業そのものであるといって過言ではない。その作業がこうも等閑にされるとあっては、現在は蒙昧主義(obscurantism)栄華の時代である。そこに埋没することに何らの痛痒も感じないのであれば、何も言うまい。

だが実際には、無限の視座という「球面」の上でバランスをとりつづけるのが人間の「生」そのものであり、そのバランスを逸することは「死活」の事態なのだ。「球」の上でバランスをとりつづけるという億劫なことを受けて立つのが畢竟「生きる」ということであろう。そのようなある種の緊張状態だけが、ちょっとはましな議論への、世論への、ひいては世態への小さな足掛かりとなるのではないか。

ウクライナ国旗の青と黄を顔面にペイントする御仁よ。青は消えぬ塗料でよいとして、黄は描き換え可能にしておくのがよろしかろう。それが無限の視座をもつ球面の住人として、最低限たしなむべき知性の常識というものである。

昨今のような委曲を尽くさぬ低劣な横議が大手を振れば赤恥をかく言語空間へと質を上げなければならない。モノゴトノ見カタというものに聡くならなければならない。

イメージ

「歴史は繰り返す」のではない。「歴史から学ばない人間が常に多数派」なのである。

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