人間と現実の境界と限界
宇宙における人間の所在はどのようなものだろう――こんなことを思うのも無理はない。何せ人間の界だけが四六時中、災難だ何だと騒いでいるからだ。河原の虫も植物も、千年前と変わらずそれなりに機嫌よく暮らしている。人間だけがギクシャクしている。地球の問題児でありつづけている。この珍紛漢な生き物を顕微鏡のステージにのせ、細大みてみようではないか。人間とその現実の境界と限界を。
人間という現象の所在
人が自然に畏敬の念をいだくのは、(昨今のアウトドアブームにいたるまで)本質に耳打ちされた回帰願望かもしれない。
仏教では「真如一転して世界となり、再転して衆生となる」と言っています。転ずる毎に偏向して、本質から遠ざかると言うのです。
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岡潔、『紫の火花』朝日新聞出版、2020年
空間的にとらえることは誤解を生むが、説明のためにやむをえずそれをする。
超越は如何様にも言明することはできないので、ここではしいて中心を「如」とする。「如」の顕現、無限の広がりのなかで、「人間」は「自然」よりも外縁に所在するというのである。それはさながら、はじまりの「ビッグバン」から時の経過とともに遠ざかり、冷えて複雑化・多様化した宇宙の相似のようでもある。相似という観点から人間は宇宙の段階の現れなのかもしれない。
「如」から遠ざかるにしたがい、エントロピー(煩雑さのようなもの)が増大するのか。かつて理論物理学者のスティーヴン・ホーキングは「ある程度に発展した文明は一瞬で滅びる」といった。宇宙的一瞬とはどのくらいかと質問した石原慎太郎に「およそ100年」と答えたという。
私はこの質疑応答を「リアル」といわざるをえない。さまざまなSF作品やスピリチュアルといわれる分野において人間の進化へのアプローチは人気のコンテンツだ。しかし、人間はエントロピーの増大を錯誤して「進化」とよんでいることが往々にしてある。進化の時間的尺度も実体も、一個人が正確に扱いうるものではない、想像の域にある。
私が一個人として経験する現文明は、加速度的に老い、病み、死ぬのではないか。生老病死「四苦」の相似、諸行のたどる道である。そも不生不滅の「如」において、生も滅も、進も退もない。一切の顕現がただそのようにあるのみだろう。
人間の現実とは
量子力学の視座には興趣がある。浅学からの仮説で恐縮だが、ここから量子力学的知識に沿った考えを展開してみよう。
マタイによる福音書に情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである
とある。これはただ心を戒めるものだろうか。もしかすると、これは行為そのもののことをいっているのかもしれない。
量子について書かれたものを読むと、意識は行為であるといえる。しかし現在の社会は人が心の中で為すことに制限はかけられない。それは「行為には至らず」という解釈だ。ここで量子の実験についての詳細を述べることは本論の任ではないので端折るが、つまりこういうことである。
この世界の極小の単位においては、常に、瞬時に、「意識は行為している」といえるだろう。しかし人が存在、行為とよぶものは、およそ「分子以上」と勝手に線引きしており、じつに便宜的存在観、便宜的行為観ということになる。
五感の限界を超えた世界を含め、すべてが存在であり行為である可能性、これを真現実と仮定しよう。ただ、たとえば陽子のような極小・極軽のものはたしかに存在しても、我々はそれを使ってテニスはできない。テニスボールが必要だ。我々が現実とよぶ便宜的現実、存在と行為は、宇宙においてじつに限られた(一定の重さをもつ)範囲のことなのである。
夢や願望を抱いた時点で極小・極軽の世界では瞬時に反応しているが、それは我々がいう現実便宜的現実ではない。我々はそれを現実と見做せないのだ。人は便宜的現実外の現実を「夢幻」という。たとえ量子を知悉しても、人間の暮らしは便宜的現実にしか存在しえないのである。夢や願望が多くの場合叶わないのもそういうことではないか。
我々が扱うことのできる便宜的現実を真の現実真現実といかに総合するか。そのデザイン力が問われている(余談だが便宜的現実と真現実との総合を図る知術、デザインを私は「文化」と定義してもいる)。