精神の母性原理
あらゆる表現は「精神」という母性原理の下にある。
精神の母性原理
行為であれ作物であれ、人間のあらゆる表現は「精神」の表れである。
精神にも母性原理があてはまる。ここでいう母性原理とは、主に子の養育において発揮される生理的原理のことではなく、工作機械における母性原理のことだ。つまり作られたものは作り手の運動精度を超えることはないという原理である。
その人を知らざれば、その友を見よ
とはけだし名言だ。表れたものはすべて、表れざる核心の述懐であり、精神の実相である。
精神主義、あるいはチープなヒューマニズム等において頻用されるセンテンスに大切なものは目には見えない
というようなものがある。情緒に訴えこそすれ、それこそ視覚にとらわれた価値分別だろう。なにが大切かにおいて、目に見えるか、見えないかは問題ではないというほうがバランスがとれている。
人の生の能動の一切は
精神的次元の出力
人の容姿についてあれこれ言うのはよくないとは私も納得する。しかし、その意図はおそらく一般的なものではないだろう。私の場合、そこからあれこれ言う必要がないのだ。表れたものが核心と実相なのだから、対象をほぼ丸裸に観たということで、必要な情報は取れたのだ。だからそれ以上言うことはない。
表れたものから核心と実相を感じ知るのは自然界の基本である。たとえば、突如、ライオンに出会して、それがどういうものなのか、時間をかけて思案するバカはいないだろう。表れたものを見て、あきらかに敵わない対象だと瞬間的に直覚する。そしてそれはいたって正確なものだ。
人の顔というものについて、大抵、意識も話題もその容貌にかたむくが、核心につながるのは「精神」をふくめた顔付き★1だ。微笑もうが、整形でかたちを整えようが、顔付きは変えられない。なぜなら顔付きは「精神」からの表出だからだ。性根が変わらない以上、絶対に変わらないのが顔付きというものである。
『フェイス/オフ』というジョン・ウー監督の映画(1998年)で、ニコラス・ケイジとジョン・トラボルタはテロリストとFBI捜査官の精神のちがいを顔付きだけで表現した。まさにそういうことである。
その意味で、私にとって「面識」には「人の面(顔付き)から識別する」という別の意味がある。目だけが口ほどに物を言うのではない。鼻も、口元も、手足にいたるまで精神の表出であり、精神にまったく関わらない、というものはない。「面識」によっては、以後、その人物の書く、話すといった表現は、自分にとって意味も価値もないと明察できる。それに要する時間は、目前のライオンのほうが自分よりはるかに強力だと直覚するのと同じ、一瞬である。
表現されたものが表現者の精神の質と違えることはないし、精神の程度を超えることもない。その人の生の能動の一切が、精神的次元の出力としてただ表れるのである。
★1 顔付き――ここでは顔立ち、目鼻立ちのことではなく、態度、調子、反応等を精神の出力と観る総合的な人相のこと。
精神の進行と退行
いきすぎた技術主義の弊害は、天然由来の「能」をいたずらに置換・変換したことにもある。「直観」を「論理」に、「運命」を「確率」に、「感覚」を「統計」に、数量の次元への強弁な置換・変換は、かえって人を鈍感にする。
「コノ企業ハ適合度92%デス」とAI(人工知能)に転職先を斡旋されたとしても、半年以内に辞める可能性は未知数だが大きい。それが理論と実行(practice)、実際(practice)の齟齬というものだ。1%以下の「確率」に計算のかぎりを尽くして迫り、見事、功を得たとしても、「人生」という総体において随意に再現不可能と知る。そして、それが技術的計算によるものではなく「運」という解釈が適当であることを晩年、知ることになるだろう。
昨今の「AI vs 人間」の議論は、「精神」なるものも対象として知悉可能とする実に雑な前提をもとに展開している。技術主義に偏頗になった人間のオツムでは、もはや技術の次元(技術性)と精神の次元(精神性)の区別もできなくなったということだろうか。
自らの劣等性を超えてくれるにちがいないというAIへの期待と依存は、空前の萎縮であり退行である。己が理想を子に押し付ける親を、巷間では「ダメ親」といっているのではなかったか。
長くなりそうなので、ここらで卑近な落とし所を。
それまで楽しめたことが楽しめなくなる、興味がわかなくなるというのは、マナリズムや老化、鬱のせいとはかぎらない。それは精神の程度が進行したせいかもしれない。出力源の母性より高次に達すれば、途端にそこからの出力はつまらない、無意味・無価値へ変ずることがある。前向きに捉えるならば、それはより上等への転機として、喜ばしいことだろう。