アイデアダウジング

「アイデアのつくり方」より
「アイデアとの出合い方」

私はこれまでどのようにしてアイデアを得てきたかといえば、おおむね「出合い」である。その「出合い」を腑分けすれば、どうも「ワタシ」と「状況」の「反応」の結果のようだ。「アイデアをつくる」、「アイデアを生みだす」、といったフレーズをよく耳にする。しかし、「つくったり」、「生んだり」した感覚は経験上ほとんどない。アイデアを得るには「反応」に期待して「状況」に「ワタシ」を放り込むといい。

アイデアは頭のみの産物ではない

「人生は常にアイデアを必要としている」といっても過言ではない。アイデアはカネとおなじぐらい、否、それ以上に必要なものだ――カネがないときでもアイデアで切り抜けられるのだから――。カネ持ちでなくともアイデア持ちであれば、豊かに生きることはできる。アイデアを得るためのスキルは中途半端なカネや資格より価値がある。

「アイデアとは頭の中の出来事である」という誤解は、アイデアを断絶する最大の障壁である。「アイデアが浮かばない」、「アイデアが降ってこない」、とアイデアがあたかも雲のごとく湧いてくるものと勘違いする人がいる。その場でじっとして、ただあせっているだけでは百年河清を俟つようなものだ。アイデアは頭のみの産物ではない。

アイデアのエンジンは、頭を状況の変化にさらすことで回りだす。家事でも仕事でも、アイデアが必要なとき、ロダンの『考える人』のように固まってはいけない。上述した「ワタシと状況の反応の結果」が「アイデア」である。アイデアは身体と状況全体のコラボレーションの産物、というわけだ。

『考える人』

アイデアは「考えて」でるものではない。

思いがけないことを求める

アイデアに飢えているとき、とりあえずパソコンやスマホで手当り次第ググって★1もがくのはやめること。そんなことをしても「側面的情報」が得られるだけで妙想には近づかない。

検索ワードにもとづき検索エンジンが切りとり、スクリーンに映しだす情報は「側面的情報」である。アイデアとの出合いにおいて、たしかに「情報量」は前提となる。しかし、どれだけ豊富な情報も、視座も焦点も固定されたのでは新たな側面をみることはできない。側面的検索作業をいくら繰り返してもアイデアにはならない。

「ワタシと状況の反応の結果」とは、言い換えれば「邂逅性」ともいえる。こちらの意の外の状況に反応して、思いがけないこと、つまりアイデアと出合う。こちらが結果を想定し、ほぼ想定どおりの結果を返してくれる装置からは離れなければならない。

★1 ググって――検索エンジンのGoogleで検索すること。

切りとられた情報

検索で得られる情報は側面的情報である。

自分に合わせてソートされていない空間――
ライブへ

私のアイデア探訪の定番は、散歩がてら外に行くことだ。たとえば本屋なら、目的の本は、ない。あってはいけない。おもむろに本屋に入り、さまざまな本を見てまわる。興味のない書架、属性ちがいの書架も見てまわる。他人事のように「ワタシ」がなにに反応するのかを観察するのだ。レジに並ぶ人が持つ「カバン」がアイデアの火口になったこともある。それぐらい、あるがままを見てまわる。

アイデアはまさに「ライブ(live)」だ。生もの、生演奏だからこその妙はじっとしていてもはじまらない。「ダウジング(dowsing)」とは地下水や貴金属の鉱脈など隠れた物を、棒や振り子などの装置の動きによって発見できると謳う手法。|ウィキペディアのことだ。その真偽はともかく、邂逅をもとめ、期待とともに一歩を踏みだすことにおいて、アイデア探しもおなじである。

ライブな情報のイメージ

ライブ(生)な空間は立体的情報次元だ。思いがけない視座は立体的全体性がもたらす。

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