明滅

明滅
極間のアーク(電弧)に踊るもの

可謬性を忘失するとき、人は野蛮になる。生の賭物としての危機を忘失するとき、人は魯鈍になる。人の目は節穴である。それも底なしの。

人の目は節穴

「おまえの目は節穴か」――
含味すれば、この罵言に抗える人などまずいないはずだ。

鳥のなかには、人よりも広い光の波長域を見ることができるものがいる。彼らの見る世界は人とはまったく違ったものだろう。「光」と「闇」もまったく違ったものだろう。

感官は観念に多分に影響していると思われる。だが、人の感官が偏頗なものであるならば、感官由来のその観念もまた偏頗なものであろう。人の「極性」の観念もきわめて偏頗であるがゆえに、人は偏頗な極と極とのあいだに幻のアーク(電弧)をみてやまない。

個人的生においても集団的生においても、人にまつわる生の現象はなべて、節穴から覗き見る幻にすぎないだろう。

★1 紫色の火花――芥川龍之介、『或阿呆の一生』の「火花」にでてくる言葉。

賭場の虚夢

死、神霊、未来、不可視光線(放射線の類)等――それらは多く両義的だ。感官を超えたものにたいして人がとる態度はかぎられる。人は往々にしてそこにの両方をあてがう。感官を超えたものにたいし、人は、言わば賭するのである。

じつはすべて同位に在るのだが、人は視覚でとらえると、あたかも麻雀で相手の牌を見透かしたとばかりに断ずる。人はつくづく、視覚に偏った生き物だ。「見える化」などという妙ちきりんな言葉が流行るのも、むべなるかな。賭する行為にたいして断ずるものだから、往々にして負ける

賭するにおいて、その判断は不確定で不確実、不眼力ゆえに不完全であるという大前提が道理である。なぜなら鳥に見えているものが見えないような、偏頗な感官の持ち主が人だからだ。自らの思惟、認識とは不可得性の全球に付いた極小のシミのような訝しい代物であるいきらないことが人知の立脚点であろう。

しかし、人というものは偏頗なスペクトルの両極間に世界の全景を押し込め、ゆずらない。傲慢に断ずることを決してやめない。これは人の肉体的宿命、悲劇的宿命である。

極間のアーク(電弧)に踊るもの

いかなる決定・決断も可謬性をはらむという大前提を忘失するとき、人は野蛮になる。おのれの生は賭物として常に危機にさらされているという大前提を忘失するとき、人は魯鈍になる。

私がここで綴る言葉を「エッセー(essai)」としているのは、すべての言葉が「試論」であるという大前提からだ。主観として文末は「だ」、「である」と言い切りはする。しかし、その上位に「誤っているかもしれないが、今、仮にそのように考えてみる」と可謬性を大前提にしている。そうであればこそ、後に誤りが分かれば加筆、修正が楽なWebにしているのだ。

極論すれば、「ありがとう」と「ごめんなさい」という言葉さえ正しく使うことができれば、人はまっとうに生きられると思っている。それ以外の言葉はすべて危ういと。

原発事故の放射線にせよ、コロナウイルスにせよ、ロシア・ウクライナ戦争にせよ、実物として見えないものに対し――否、認識しうるものすべてに対し――言葉を綴るその行為には、大前提としてかならず可謬性が意識されなくてはならない。それは賭する行為なのだと、言葉が孕む危機が意識されなくてはならない。そうでなければ言葉は野蛮に堕し、魯鈍に陥る。

駅前で、ウクライナへの支援をよびかける活動を目にした。若者だ。ひとつ声をかけてみようか。

「ところで、君が影響を受けたスラブの歴史について書かれた本、あるいは文芸作品、映画でもいい、いくつか教えてくれないか。――君の人生の選択について私が意見しようと思えば、君の生い立ちから知る必要がある。でなければ失礼というものだろう」

「統治機関と個人の意思がかならずしも一致するとはかぎらない。ウクライナ兵、ロシア兵、ともに名もなき兵士である前に、両親から愛恵の名を贈られた個人であり人間だ。息子を亡くした母の悲しみを思えば、国旗を掲げることの意味の重さに、視座の複雑さに、私なら躊躇してしまうだろう。当事者でないからこそ、難しいこともあるものだ」

「ところで君は、見ず知らずの人のケンカに割って入ることは、よくあるのかい?」

やめた。品がない。大方、彼らの「極」は流行りの漫画やゲーム、ワイドショーの専門家やら著名人やらのコメントの刷り込み(imprinting)だろう。責任能力を問う段にはない。

彼らも年をとればじきに分かるだろう。人の危うさが。言葉とは得てして恥ずかしいものだということが。人間風情の掲げる「光」も「闇」も、一皮むけば野蛮な熱狂であるということが。

世上の知はその肉体的限界、斜視的な解釈癖から、光のなかに闇を、闇のなかに光を観ることがない。光か闇か――明滅する世界に眩暈をおぼえ、目をしばめかす。あっちへふらふら、こっちへふらふら、外灯に蝟集する虫のように。

人の目は節穴である。それも底なしの。

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