閑言

閑言 大上段からの愚痴・文句

人は言いたいことを言っているとき、自然体だ。愚痴はよくないとか、文句は言うなとか、でもそれが抑えがたい自然な衝動なら、存分に言えばいい。自然にそうなるくしゃみをがまんしたり、便意を抑えたりするのは、或る種の自然破壊である。大自然の流れに下手に手を加えたりするとよくないように、言葉の流れも下手な気遣いでおかしくしないほうがいい。閑言もまた自然の言葉である。

うるさいCM

CM(コマーシャル・メッセージ)はとにかくうるさい。しかもただうるさいのではなく、あからさまに低劣な、下卑たものがほとんどで、15秒であっても視聴に堪え難い。同じ時間、熱湯に手を浸けるほうがまだましである。

つまり最大多数派の感性の度合がその程度ということだ。そも広告というものは、かけたコストを上回るリターンを得ることが最大の目的である。だからターゲットのなかでも最大多数派に向けて制作される。その結果、商品・サービス名をやかましく連呼するものや、低劣で下卑た表現に傾くというのであれば、そういうことだ。

CMとは世間の程度を象徴するものである。CMのほとんどをうるさいと感じるあいだは、書を捨ててまで町へ出る価値はない。

1983年、アルチュール・ランボーをフィーチャリングした「サントリーローヤル」のCMは秀逸だった。CMも昔のほうが上等だった。

わかってんじゃねえか

課金すれば、広告が消せるという。

わかってんじゃねえか。本題に割り込んでくる広告がいかに煩わしいものかを。

その煩わしさ、食事の最中に箸を床に落としてしまうが如し。ナポリタンスパゲッティのなかのタマネギを、おろしたての白いシャツに飛ばしてしまうが如し。

わかってんじゃねえか。人が眉間にしわを寄せて嫌がることだと。広告の「こく」がもはや「告げ知らせること」ではなく「こくなこと」であることを。だからカネを払えばその煩わしさから解放してやるよ、というわけだ。

カラスもそのうち、カアカアとうるさい騒ぎをやめてほしければカネを払え、といいだしかねない世の中だ。

新版の辞書では「プレミアム」の新たな意味として「カネを払って煩わしい広告を消すこと」と追加してもらいたい。

ネスレ日本が2013年に公開した「ネスレシアター on YouTube」。映画監督が制作したオリジナル作品を「コンセプトシネマ(2014)」とし、物語のなかに自然なかたちでブランドを練り込む。CMの新しいかたちの提案として良いものだった。目に強引にねじ込むやり方はもう旧い。

惰弱ビジネス

自然界よりもむしろ人間社会が「弱肉強食」である。人間社会では「弱さ」は捕食者にとって「肉」そのものであり、胃袋ではなく底なしの欲の的となる。

惰弱な人間はその「弱さ」を常住坐臥、狙われていると思ったほうがいい。そして日々、コストというかたちでその惰弱を埋め合わせることになる。

重箱の隅を楊枝でほじくるように「惰弱」はほじくられる。ビジネスの的になる。モーニングコールや退職も、すでに代行業がある。そのうち恋の告白や隣室への騒音の苦情も「カネでお願い」することになるだろう。

弱いというのはカネがかかるものである。強いというのはコスパよしなのである。

カネをはらって代行してもらうのも手のひとつではあるが、自分でごたごたを受けて立つ経験というのも価値あるものだ。

フォアグラ

「フォアグラ(foie gras)」が出てくると、高級なオードブルだといって喜ぶ。諷刺としてみる余裕などないことだろう。

現代の「過剰の自動症」に罹った人間の、知的、感性的なフォアグラ状態ときたら悲愴だ。漏斗で食物をむりやり流し込まれるガチョウや鴨の悲愴と変わらない。

カメラアプリによる児戯に類する虚構の作物を見ると、感覚的嫌悪をもよおす。遺伝子組み換えに失敗した怪奇的作物を見ているような。

人の眼が節穴となり、下種な作物の片棒を担がされるレンズは、漏斗で食物をむりやり流し込まれるガチョウや鴨の眼のようだ。

スマホの「自撮り(アプリ)」から活況を呈したと思われる「フェイク写真」。「フェイク美人」「フェイクイケメン」になりすますぐらいなら、いっそ『アバター(ジェームズ・キャメロン)』の、あの青い宇宙人にでもなってくれ。そのほうがはるかにましだ。

てれこ

「アンリ・シャルパンティエ(Henri Charpentier)」をアンリ・シャンパルティエという人がいる。「アナフィラキシー(Anaphylaxie)」をアナキラフィシーという人がいる。

わりあいに几帳面な性格の私からすると、そういうてれこはじつにむず痒い。

覚えにくい単語というものはたしかにある。だからといって一部がてれこになっていることを放置するというのは、わりあいに几帳面な性格の私からすると納得がいかない。本棚の本が一冊だけ逆さまになっているような、全身「しまむら」なのに鞄だけ「ヴィトン」のオバちゃんのような違和感だ。

こうして世間は言葉の景観にますます疎くなり、現実がそれにつづくのである。

てれこ癖のある人はカタカナにおいて頻発する。治療法としては、原文(英文)から記憶するといい。

命名

名前は実体にもとづくものがほとんどだ。

縞がある馬だから「シマウマ」。暴君のような(tyranno)恐竜(saurus)だから「ティラノサウルス」。洗濯する機械だから「洗濯機」――。名を隠しても「匿名」という、やはり相応しい名である。

ところが人だけは異なる。人は実体、実質や内容が顕れる前、生まれると同時に名前がつけられる。そこから「名前負け」というエラー(誤差)が生じてしまう。名前は実体にもとづいてつけられるほうが後々うまく機能すると相場が決まっているというのに、やらかしてしまう。

たとえば、美徳を意味する名の者が稀代のであったりする。こうなるとちょっとした喜劇だ。もしかすると、そこに深遠な意味が込められているのか。つまり喜劇のように人を笑顔にする人たれ、と。

否、ただのエラーだろう。

愛情と希望を込めれば、名前が美化されてしまうのも致し方ない。であれば、せめて「(当社比)」とつけてみてはどうだろう。

病葉

おもしろい言葉がめっきりと減った。言の葉はすっかり病葉となり、今となっては会話や社交といった人間にとって本源的であろう営みも、児戯に類する営みとなった。

SNS等で交わされる言の葉が、なべて十代前半のやりとりにしかみえないのは、言語的ネオテニー(幼形成熟)ではないのか。

世間の言の葉が病葉となり、会話のほとんどが空話となった。そんなありさまなら、飛沫を飛ばさないだけ沈黙のほうがましだ。こうなってくると、自ずと活字(活きた言の葉)にお付き合い願うしかない。

書物の言の葉だけは、余生、どうか健全でいてくれよと、松の幹に「菰巻き」を施すように、新しいブックカバーが欲しくなった。

言葉ほどかんたんに変えられるものはない。なんせ口先ひとつなのだから。だから言葉にすら行き届かない人というのは、仕事だろうが恋愛だろうが信用できないのも無理はない。

出歯亀化

ネットの「炎上」なるもの、その多くの火口窃視だろう。「わざわざ自分から覗き見て腹を立てている」のである。

ネットという時空の制限から半解放されたのぞき穴が、生きるにおいて知ることも見ることも必要のないものまで知らせ見せる。いつどこででも覗けるこのは、世間も思考も海綿状にし、人を病的な知覚過敏の陥穽にはめるとみえる。このさもしさが現代人特有のものかといえば、そうでもない。

およそネットを取り入れた文明人の総出歯亀化のようなものだろう。出歯亀とは、明治末の変態性欲者、出歯の亀太郎に由来するが、彼と炎上人のちがいは技術の如何によるものでしかない。そう考えれば、現在とは明治の変態もひっくりかえるほどの大変態時代である。

次の一万円札の肖像は「出歯の亀太郎」にでもするのがよろしかろう。福沢諭吉も、変態社会の紙幣の肖像など降版願うのではないか。

赤の他人の不倫に首を突っ込み、ノルアドレナリン過多で身体を弱めてどうする。

アシスタント

たいてい、メインのキャスターの傍らにいるアシスタントは女性だ。しかも内容がシリアスなことであっても終始、微笑を湛えたまま、無知で頓馬なことばかりいう役付けを目にする。

それがマス・メディアの判形であり商法であり、大衆知の象徴でありシンパシーの象徴である。あるいは庸俗な男性の視聴者は、視界のすべてで性感の欠片を探り杖のごとく求めることから視聴率のためでもあろう。

こうした女性の扱い、役付けに女性は腹を立てないのか。こんなありさまだから、そこで語られる有事の危機なども傾眠の譫言でしかなくなる。

こうしてマス・メディアは物事の上面を撫でまわし、毎度、茶化して幕を閉じる。

結局、「綺麗どころ、紅一点」などとセックスシンボルとしてちやほやされることにまんざらでもない女性。それしか待望していない男性。これら変わらないマジョリティーが「それでいいのだ」と暗黙の声を揃えるのが浮世である。

身体的知性

知性もまた身体から生まれるものである。どれほどの知嚢も、身体なしには発揮しない。

知性がいかに身体的なものであるかについて、人は往々にして無頓着なものだ。知性の本質が身体により揺られていることを意識しない。

たとえば思想傾向の「右、左」という言いまわし。「左」はフランス革命時、自由・平等・博愛・理性を掲げたジャコバン派がフランス国民公会の左側に座していたことに由来する。つまりその基準は身体にある。

あるいは映画『エイリアン』の恐怖の淵源は、男性器と女性器をシンボルとした性の身体的恐怖性からくる。

人が左右の対称性は重視するのに上下の対称性を重視しないのは、人間の、おのれの身体がそうであるからだろう。

自在、霊的といわれる発想ですら、この次元では身体と不可分である。

イメージ

脳に異様な権威をあたえ、マイオピックに執着するあいだは、知性の全体というものに出合うことはないだろう。

人工甘味料

私は一部の人工甘味料にアレルギー反応を起こす。それもかなり危険度の高い症状だ。だからバカの一つ覚えのように人工甘味料を入れた昨今の食品は、私にとって「かて」なのか「かせ」なのか、怪しいものである。

人工甘味料が入っている可能性を示すサインがある。それは「ダイエット」であったり「低カロリー」であったり、あげく「健康」と銘打たれたもの。

くだらないことこの上ない。

食べること、眠ることを生命活動の必須としている人は多いが、それは偏頗である。食べ、眠ることと同列に「動くこと」がないのは偏頗である。そんなことだから、生きることはできても、肥満になったり体型が崩れたりするのである。

あげく人工甘味料のような不自然なものを食物に混ぜ込む始末になるのである。

大して動いてもいないくせに、なにが「自分へのご褒美」だ。甘いことばかり言ってるんじゃあない。

トレンド

流行トレンドに蝟集することは、じつに恥ずかしいことだ。なぜならそれが流行トレンドたりえるのは、ガウス分布において大勢を示す0σあたり、「並」の現象だからである。

流行トレンドがかならずといっていい、中位・中等のものであると知れば、追従して好い気になっているさまは烏滸の沙汰であると知る。さらに、それが商業主義コマーシャリズム群衆主義マスクラシーの二重構造においては中位・中等どころか下位・下等に属するものであると知ればどうか。これに恥を感じないのは、少々どころか相当に魯鈍であるといわざるをえない。

流行トレンドは「商売」においてとくに特筆大書される。その流行トレンドの追求にビジー(忙しい、busy)になっているビジネスマン(忙しい人)はどうか。これもまた、中位・中等あるいは下位・下等に集中しているという点で同等である。

それはあたかも、魚も釣り手も、擬餌鉤ルアーに気をとられ自我を没却しているようなものである。

血圧が「並」だと安心し、知性やセンスが「並」だといわれれば顔を赤らめる。それが人というもの。

目は口ほどに

目は口ほどに物を言うとはまったく、昔の人は良い言葉を遺すものだ。

大体、目を見れば分かる。

謀士ならばその目は「謀士」の目をしているし、俗物ならばその目ははっきりと「俗物」を宣しているものである。

それは目が、外に向かって突き出た脳の一部であるから、赤裸な器官であることを免れえない。

「オレオレ詐欺」に騙されるというのは、分からぬでもない。 私は相手の「目」さえ見れば騙されることはない自負があるが、「声」だけというのは難しいだろう。

一方で「結婚詐欺」に騙されるというのは魯鈍である。 見つめ合った後に騙される、などというのは、風鑑もできぬほど感覚がにぶいということだ。色に誑かされた痴態であり、同情の余地はない。

人は見かけによらぬとはいうが、およそ目は見かけどおりである。

「目利き」とはこれまた、昔の人は良い言葉を遺すものだ。

動物の目はみな好きだ。それが昆虫の複眼であっても、美しい目をしている。きらいな目をした生き物など、人間以外にとんと出合ったことがない。

人生100年時代(笑)

人生100年時代(笑)――人口に膾炙する惹句というものは、ほぼ例外なく滑稽である。だから「(笑)」だ。

「みなさんの寿命は100年になりましたよー」といわれて「はーい」と返事をする光景は幼稚園以来だ。子供と大人の最大のちがいは、従順が美徳と映ずるか、軽愚と映ずるかである。

地獄の沙汰もカネ次第――これだけ貪婪が猖獗をきわめる世に身をおいて、人生100年時代(笑)にかかるコストを想像しないのか。

人生100年時代(笑)――その裏には但書がびっしりと書かれている。

「無一文のあっしでも、100年生きれますよねえ? だってそういう時代なんでしょう、旦那ァ」

みいはあ

量子力学によれば、時間は存在しないんだ!――上気してそう話す徒輩に「じゃあ明日の面談は堂々と3時間ほど遅れて行ってくるといい」という。時間なんてないんだ。気にするな。

まるで当世の『安愚楽鍋(明治4~5年の滑稽小説。仮名垣魯文作)』のような西洋気触かぶれならぬ最先端気触れの楽観を、半可通を見聞きする。

「みいはあ(ミーハー)」というのはいつの世にもいるものだが、エスカレートしたのは情報化社会のせいだ。

昔は情報にも位階ごとの秩序があった。農夫は農夫の、貴族は貴族の暮らしに必要な情報、知識をもち、いわば情報の適材適所があった。情報はもっと実際的プラクティカルだった。

しかし情報化社会とやらのおかげで、情報はネットという大通りにぶちまけられる。結果「おまえがそれを知ってどうする」という情報の無秩序アナーキー瀰漫びまんした。

そもそも量子の世界の歩き方など、歴史のなかに叡智として、日々の暮らしのなかの気づき、感づきとして点綴している。二千六百年つづく仏陀の知恵のみならず、それらは知識的、方法論的であり、実際的なものだ。「みいはあ」はなにをいまさら……。

こうしてまた「みいちゃんはあちゃん」が自分の子に「量子りょうこ」とか「量子かんた」などという丸出しのキラキラネームをつけるのだろう。

そう考えるだけでぞっとする。そんな「みいはあ」こそ存在しない世界に旅立ちたくなる。量子のことはともかく。

みいはあは嫌いだ。筋を通さない、たちの悪い風来人、面倒くさいカルトだよ、あんなものは。

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