知の孤独

知の孤独

知性は歴史的には加法性をみる反面、「孤独」といわざるをえない非加法性を併せ持つ。孤独を知らぬものは知性の本意を知らぬといっても過言ではない。

知の孤独性

ここでいう知の「孤独」は、俗言でいう「ぼっち」のような感情の寂しさを伴うものではない。知性というものの根源にある「孤独の性質」のことである。

知性は本来的に「孤独」な性質をもっている。それを忌避、隠蔽することもまた、知性の劣化のための運動のひとつである。飯を一人で食うことにすら「寂しさ」を感じて嫌うような人間に、知性の精光をみたことがない。

知の非加法性

知性は歴史的には加法性をみる反面、「孤独」といわざるをえない非加法性を併せ持つ。

アレクシス・ド・トクヴィル★1多数派と少数派に分かれた場合、(知性を)足し算して多数派のほうが少数派の知性より多いとする(知性の)平等主義の誤りをいっている。

ギュスターヴ・ル・ボン★2およそすべての人はヴォルテール★3より才知に富んではいない。すなわちヴォルテールひとりの才知はおよそすべての人の才知に勝るといっている。

人間一人の知性を等しく「1」と数える前提が誤りであるがゆえに、たとえば民主政(デモクラシー)は往々にして衆愚政(オクロクラシー)に陥る。

ある側面において、知性は完全に閉じた宇宙である。そして「社会」として集積したところで、知性の非加法性が失われることはない。

「集合知」という言葉に私は甚だ懐疑的だ。数量化可能な側面を人間が恣意的に対象化し、それを単純な演算によってもとめ、知性と断じてしまっているからだ。 それが実際的に「知性」たり得るか疑わしいし、「民主的なるものが好ましい」という思潮に影響されてはいまいか、疑わしい。

実際には、馬鹿が三人集まっても文殊の知恵になどならず、せいぜい三馬鹿などと謗られ、馬鹿が再確認されるのがオチである。

知性に加法性をみるのは、マグマのような非加法状態が落ち着いた後、つまり時の熟成を経て歴史に承認されてからのことだ。長きにわたる葛藤、あるいは熟成の懐妊期間を経てようやく、知性の「和」の側面をみることができる。私が「文化的知性」とよぶものである。「インテリジェンス」という言葉にみる現今の知性は、なべて知的可能性とよびたい。

そのように考えれば、昨今の文化破壊の革新主義下における知性が極度に競合と分離に終始するのは当然の仕儀である。知性の「和」としての文化的知性というものは、この世でもっとも時を要する構造体かもしれない。あげく、先哲が超越、実在の次元にのみ知性の綜合を仰ぎみたのも、うなずける。

知性を計ることができる計量器があれば、計量結果は図のようになるだろう。

★1 アレクシス・ド・トクヴィル――フランス人の政治思想家・政治家・法律家(1805-1859)。

★2 ギュスターヴ・ル・ボン――フランスの心理学者、物理学者、社会学者(1841-1931)。

★3 ヴォルテール――フランスの哲学者、歴史家、文学者(1694-1778)。

「文化的知性」についての関連記事:文化的知性と鬱

知といかに付き合うか

知性が短期においては往々にして非加法的なものであると知れば、知性にとって「孤独」がいかに価値あるものかは常識に属する。孤独を知らぬものは知性の本意を知らぬといっても過言ではない。

知といかに付き合うか――言うまでもなく「孤独」の確保に努めることだ。「つながり」と称してただちに群れ集う世人をみると、知性にたいする養育放棄ネグレクトかと思う。事物の精華に全霊をかけられる機会を自ら捨てている。身体が眠っている間に調律され育つように、知性も明在ではなく暗在にて発展する。別言すれば「独り深く感じ入るとき」に熟するのである。

味わい深い社交というものには、先んずる個人の知の熟成が不可欠だ。「知の孤独」も知らぬものが寄り集まったところで真水の寄せ集め、馥郁たる香りただよう酒にはならない。滋味ゆたかな酒宴(社交)にならないのである。

関連記事