暮らしかる

暮らしかる

「新しさ」のみが価値となるような場の軽忽な感じは、なんとも不愉快で、私には甚だ合わない。新しいもの・若いものは事物として未だ「腰がない」のだ。
私が「暮し」にもとめる「腰」は、たとえるなら樹齢のいった木の風格、熟成をきわめた経験からの常識といったものだ。こうした「腰のあるさま」を「クラシック(一流、洗練、classic)」といおう。

ていねいに生きる

虫も獣も人間も、生きものは生まれ出て死ぬまで「暮らす」。「生きること」は、言わば「暮らすこと」。

私のモットーのひとつは「ていねいに生きる」だが、言葉の真意に触れたのは四十になってから。四十五で寄る年波、否、衝波というか事故というべきか、とみに衰えを知ることとなり、四十八の今「余生を懸けた主題」となった。あらゆる事物の価値が「ていねいに生きる」という基準によってはかられる。

こう言うと、およそ世人は単なる安楽観念からの「人生100年時代(笑)」のような軽薄な延命至上主義の一環ととらえるだろう。が、むしろそれとは真逆の思想であると断っておく。

四十五で死と対話可能なまでに距離を詰めたからこそ、「ていねいに生きる」、その思いが真剣味をもった。死と隣合せにならなければ生の「ていねい」の意味が分かりはしないだろう。生と死はコインの裏表だ。死の観念が生の観念をきたえる。

「ていねいに生きる」その「暮し」には、同じくていねいに扱われる「死」がある。忌避するのではない。やたらに生きたがるのではない。「メメント・モリ(memento mori)」――死の逆光によって生の輪郭をていねいに見きわめるのである。

ぶぶ漬けでもどうどす?

「新しさ」のみが価値となるような場の軽忽な感じは、なんとも不愉快で、私には甚だ合わない。流行とは知的感冒のようなものであり不健全なものでもあるのだが、身体を損なうことがないため多くは現を抜かす。が、知的にはじつは損なっている。風姿と洞察とを。

新しいものというのは、その価値の発揮も価値についての批判も不十分であるから、言わばまともな価値が存在しない。たとえるなら赤ん坊への人物評のようなものだ。臆断である。よってめいめい好きな価値を即席であたえるのだが、その軽佻と軽信が斯くも野暮ったい世間をつくったとあっては、自重する。

新しいもの・若いものは「弱い」。「若輩」は「弱輩」とも書くが、事物として未だ「腰がない」のだ。

私が「暮し」にもとめる「腰」は、たとえるなら樹齢のいった木の風格、熟成をきわめた経験からの常識といったものだ。こうした「腰のあるさま」を「クラシック(一流、洗練、classic)」といおう。クラシックは信頼を伴い、新しいものは臆断を多分に含む以上、リスクを伴う。

いかに「楽で速くて快適か」のみが基準の「新しさ」はもういい。それが「ていねいに生きる」ことにおいて大して効果的ではないことは、もう十分に分かった。半可な多動症を進化・進歩とよぶような、そんな世事にはこれからも「ぶぶ漬けでもどうどす?」と言いつづければよい。

Taos

今秋、「暮し」を主題に一泊、どこかへ行こうと思った。縁がはたらいて、よい宿に出合う。 兵庫県・丹波篠山城下町にある一棟貸切の宿『Taos』。築百年をこえる『Taos』の佇まいには「腰」がある。

前を流れる小川に魚の影。ハヤだろうか。川の豊かさに心充たされる。耳をすませば宿の中でも聞こえるせせらぎ。平素、MP3のデジタルデータを買ってまで自然音を流す自身の滑稽を優しくなだめてやる。

旧き良き日本家屋。懐古的な佇まいに馴染むかたちで控え目にリノベーションされた古今折衷がよい。深呼吸をひとつ、クラシックの薫りがする。――「文明」は「花器」、「文化」は「花」――持論への固執を心地好く感じる。

この一泊の旅もまたよりよき「暮し」への道程だ。縁にあたえられた此処での刻をていねいに過ごそう。この「クラシック」に裏打ちされるであろう私の思いに触れにきたのだ。

人も、時も、季節も、本来、気取るものだ。誰なのか足音で気取る。光の感じで時刻や季節を気取る。それが有機体としての「家」であり、有機的な「暮し」である。

Taos

「暮し」の奥深さ、「暮らす」たのしみ――この宿には「暮し」のエッセンスがある。
兵庫県丹波篠山 一棟貸切の宿『Taos』

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