夕照の下り坂

夕照の下り坂

夕照――醜いものがより明晰に、美しいものがより明晰に、映ずる刻――。冬至もちかい長夜に耽る読み物ほしさに手にとった、葉室麟『神剣 人斬り彦斎』(角川文庫、2023年)に思う。2023年最後の記事。

夕照

(もはや――)

仰々しく厚い扉を開けて出る。官学ふうの響きは内にこもり、リノリウムの床に弱々しく反響し、徒広い外気にかき消された。

流行に揺れる稚い女の紫色の髪を、嗤うように風が揺らす。
星としてはおそらく劣等であろう太陽も、夕照はシリウスより美しい。

頓に下りだした道、夕照に陰が映える。
醜いものがより明晰に、美しいものがより明晰に、映ずる刻である。

イメージ

冬至

冬至もちかい。あたかも規戒の消灯時間がきたかのように、にわかに日が暮れる。長夜に耽る読み物がほしい。

駅前の書店には古書のコーナーがある。その書店に流通する人と書の相を赤裸にかたるコーナーだ。世間の気うけをてらっただけのものや、衒学的に未来を予測したようなものは(当が外れて)一際みすぼらしく見える。一時の騒ぎに与したことを羞じるのは、著者ではなく書物である。

一冊の文庫を手にとり、裏の紹介に目をやる。葉室麟『神剣』――河上彦斎★1か。これにしよう――。レジでカバーを付けるかどうかを訊かれ、断る。向き合う書すべて、味読の態度を欠かさない。そのための手触りに必要なブックカバーをもっている。

彫琢されたものが並ぶ書店というのは豊かな場所だと、いつも思う。

★1 河上彦斎――1834-1872。幕末から明治時代初期にかけての尊攘派の熊本藩士。幕末の四大人斬りの一人とされる。

草莽

今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望むほか頼みなし

「安政の大獄」で刑死した吉田寅次郎(吉田松陰)★2は生前、そう唱えたという。インクになった彼の言葉に目を留め、現代に身をおく私は言う。
「(吉田様、今や幕府・諸侯のみならず野も酔人、上下漫然としております。草莽はもはや枯野になり果てたかと。あなたが御存命ならば、この腑抜けた枯野を如何にして燎原に変えられたでしょう)」

恒久的戦時社会と恒久的戦時経済という「冷戦構造」を前提とし、構造の必然として成立する近代の「国民国家」は日本古来の国家観念とは異なる。そうした与件の不和からくる進退両難に結着をつけたのが先の大戦だった。日本は異様な国家へとロボトミー(神経径路切断手術)を施され、実質「世界の特区」へと歪曲された。民はまもるべき家(home)を失った(less)のだ。これが日本におけるグローバル化なるものの実相だろう。

ゆえにグローバル化以降は成功者であろうと「富めるホームレス」である。地表の何処にでも豪奢なマンションを借り、あるいはホテル暮らしができるそれを「自由」、「勝利」と定義する。そのような世態を、風潮を「し」として止めんとした幕末の志士たちの「こころざし」は何であったろう。それは「雅懐」であったかもしれない。

尊王の大義とは、国を恋い慕うことだと思うのです

「(ならば当世の我らは大義など望むべくもない。死より劣等な生を食む、それは果たして、ひとなのか、なんなのか。そういえば、令和の世にはSheepleなどという言葉がございましてな。なんでも人生100年時代などと現を抜かして云々……)」

彼らからすれば、私らのような人間を「下らない」というのだろう。人というより、存在欲の権化。もはや草莽ではなく「草芥」。小生、「草臥れ」申した。

★2 吉田寅次郎(吉田松陰)――1830-1859。幕末から明治時代初期の思想家・教育者。彼が開いた「松下村塾」は幕末の志士に大きな影響を与えた。

赤心

彦斎が生きた時代、最新の兵器であったイギリスのアームストロング砲。それら兵器や戦を手引したのは、グラバー★3をはじめとする海外資本だ。たった150年で恫喝の兵器は核に代わったが、構造は変わらない。国も人も、憂い事の本質は毫も変わっていない。外圧に狼狽し、奸策が跋扈し、衆は悲憤慷慨の末、無明に眩れる。

呆れるほどなにひとつ違わない。否――下駄と焼味噌、まったく異なることがひとつある。それは心意だ。

幕末の尊王も、攘夷も、およそ信念の影も形もなく、俗了のきわみで惰性という化け物と化した心意は、救いようのない闇に沈みゆく。その闇の深さたるや、おそらく彦斎が嘆いた世の比ではない。まさか、私のような凡夫が耐えかねて世を憂うことになろうとは。ここまで埒外の世になろうとは。

さような化け物の仲間に入りたいとは夢思わぬ

「変わらないこと」よりはるかに酷い「変わりよう」というものを歴史に諭されて尚、講釈をつづけるのはあまりに詮無い。この手の話柄は以後(それで食う)職業人・専門人にお任せする。

ひとはただひたすらにおのれの道を進めばよいのだ

林桜園の言葉が胸を打つ。おのれの道――死への道すじ――。
私は己が下り坂をゆく。

君がため死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん

彦斎のような、幕末の志士たちのような大義など望むべくもない。斯くなる上は暗がりに人知れず咲くわが赤心への憐憫、朋の赤心の一輪に余生を懸けよう。

冬至もちかい年の瀬の長夜。
私もここで一句。
――年だくな空華に戯れし徒し世の寒雲越しに望む暁――

来る年、私がこの書房で語る言葉は、見付からない。

【引用箇所】葉室麟、『神剣 人斬り彦斎』角川文庫、2023年

★3 グラバー――1838-1911。トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)、スコットランド出身。武器商人として幕末の日本で活躍した。

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