
熾想前野 全球和合の愚
「和」への軽信と虚妄――グローバリズムもナショナリズムも正解にはほど遠いが、どちらかといえばナショナリズムのほうがまだましか。
全球和合の愚
字引によれば、「和合」とは
(1)やわらぎあうこと。仲よくすること。
(2)まぜ合わせること。
(3)男女が結婚すること。性交すること。
(4)生花で、葉物の葉を向き合わせること。
とある。(3)は男女の関係に限定しており、(4)は生花の用語であるから除くとして、(1)と(2)は共通して多義性を多分にはらんでいる。
「やわらぎあうこと。仲よくすること」――けっこうなことだ。だが、その前提となる与件はどうか。
人間の脳のニューロン(神経細胞)は、1のあとにゼロが28個つく展開の可能性を秘めているという。換言すれば、「ヒト」として姿形は皆ほぼ規格内に収まるが、その知的差異たるやイヌとネコの差異以上であろう。トマトとニンジンの差異以上であろう。そんなものが仲よくするには、高圧的な規範(法、文化等)が必要となるだろう。超個人的な平衡術も必要となるだろう。そしてそれでも限界があるだろう。そこにはやわらぎ、仲よくといった甘っちょろい単純な情操など消し飛ぶ冷徹が外在し内在するだろう。
文化破壊(ヴァンダリズム)の思潮にある現在そしてこれから、技術化された規範が「和」を担うことになる。人は情報となって管理され、文明プログラムの一文字としてやわらぎあい、仲よくする。単なる分子的整列をそう自称するのである。それを可能にするのは技術以前に「和」への軽信と虚妄、そしてある種の神経症によって魯鈍になった知性である。――和の低次化を以て貴しと為す――。
「まぜ合わせること」――さまざまな色の絵の具をすべて混ぜ合わせると、黒く濁った色になる(減法混色の原理)。さまざまな色の光をすべて混ぜ合わせると、真っ白になり色は消える(加法混色の原理)。
馬鹿の一つ覚えのように「まぜ合わせること」の帰結は画一化、全体化、あるいはアナーキー(無秩序)、アノミー(無規範)、果てはアパシー(無感動)である。
「和合」は過剰において負価値をあらわにする。節度というものに押し止めてはじめて、正価値をみることができる。グラスに注いだワインは馥郁たる香りを放つ飲料だが、あふれたワインは汚れになるように。猫と杓子を同じにして、猫を煮えた鍋に入れれば死ぬように。行き過ぎた「和合」は単なるごちゃ混ぜ、「カオス」である。
銀河間が、惑星間が斯様に離れていることは、宇宙が広いことは幸いである。孤独は幸いである。「和合」の過剰は鬱と滅とをもたらす。そこで(3)の意味、男女が乳繰り合う程度をもって「和合」の好例としておくのは先人の知恵であろう。
「和」とは意図ではなく結果であり、均一な集合ではなく不均一の習合である。内発的、創発的な運動の末、異なるものが結果的によく配置され棲み分けられることが「和」の実際であり限界である。そしてそこに付加価値があるとしよう。でなければ宇宙は冷えて今のかたちをとってはいない、火球のままでありつづけたことだろう。

「和を以て貴しと為す」文脈があらゆる事物に瀰漫している。まるでカルトのドグマのように。