知性の骨格

知性の骨格

知性の危機の時代――瀰漫する「知的失調症」を、人の知性を骨格に喩え、論じてみる。

知的失調症の時代

当今の世に瀰漫びまんするデスペレート(絶望的、自暴自棄)な情調の淵源のひとつは知的希望のなさである。種々の情調に「知的失調症」が通底しているとみていい。「知的失調症」において頭をもたげる知的傾向が人口に膾炙しているのは、その証左でもある。

たとえば、過度の技術主義テクノロジズム革新主義イノベーショナリズムとその反応としての日和見主義オポチュニズムの類の瀰漫。改革・イノベーション、新基準・新標準等、いずれも聞え良く唱えられ、またたく間に世人の常語、常式となる。しかし、こうした知的傾向の結果、世人は皮相的観念の空気に漂流し、その知が機能不全を起こす。

この流れがなぜ人を「知的失調症」に陥れるのか。何のことはない、それが只ただ人間の知的本源性に相反する「知の不自然」だからである。

こうも容易く「知的失調症」の陥穽にはまるのは、「知的骨格」がないため、踏ん張りが利かないからだろう。あるいは脆弱ゆえに落ちて骨折し、出られなくなる。いわば知的に軟体動物へと退化してしまうようだ。

こうして穴に落ちたものが蠢く暗穴のマスが鬱塞の景色となり広がっている。

知性の骨格

冷えて多様になった宇宙も、元は一点の火球であったことからか、この世の現象は換喩メトニミー隠喩メタファーに事欠かない。人が骨格から成るように、人の知性も骨格に喩えることができる。骨格に喩えることができるのならば、総合性をもちえるということでもある。

人の知性を骨格に喩えれば、頭骨とは何か。それは「哲理」だろう。脊柱・胸部から骨盤の体躯は「思想」、手足は心的操作、つまり「思考」と喩えられる。

知的に軟体動物へと退化してしまうというのは、この「骨格」を失うことであり、「総合性」を失うことである。

知性の身体性

知性を骨格に喩えることは同時に、知性に身体性を観る、ということでもある。まず、頭骨の「哲理」が意味と価値、優先の判断をする。そこから精神の構えとしての体躯「思想」ができる。その思想にもとづく「思考」が手足となり実践となり、環境にはたらきかける。

反対に、手足の「思考」からのフィードバックが体躯の「思想」、あるいは頭骨の「哲理」に影響することもある。まず「思考」が投企された世界をまさぐり、生活や労働、慣習といった日々、繰り返す所作の積分的涵養が「思想」、「哲理」にいたる。人の子の成長過程が体・知連動しているのに似ている。

この「知性の身体性」を歴史的時間からの学習的知識として、文化や伝統といったものは暗黙裡に内蔵している。そのため、文化的知識を漂白し、除去した技術革新主義のもたらす知性には、いちじるしく身体性がない。骨格が溶けて失われるのは必然である。

退化する知性

「世間はもはや人倫の体を成していない」と愚痴る段階にまで頽廃しているのは、理非の判断を受け持つ部位の欠落からくる。「頭骨(哲理)」はとうに失い、あまつさえ「体躯(思想)」まで麻痺しつつある。「手足(思考)」のみとなり、どの株が儲かるのか、どの店が安いのか、どの人間に認められようかと常住坐臥やっているのである。

一度退化した生物が失った器官を取り戻すことは容易ではない。知的には、すでに機能の相当な部分が失われたも同然である。

ゆえに街頭演説も、デモも、新首相とやらも、画期的な技術革新も制度も――なにものを前にしても、私はもはや「是非に及ばず」としか言葉を持ち合わせていない。それは手足のみが徘徊するという気味悪い、知的に絶望的な状況にたいする適切な距離感である。

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