
知性の骨格
知性の危機の時代――瀰漫する「知的失調症」を、人の知性を骨格に喩え、論じてみる。
知性の身体性
知性を骨格に喩えることは知性に身体性(総合性)をみる、ということでもある。
頭骨へと向かうにつれ知性はより総合的になる。たとえば、ピアノの鍵盤の上の「手指」の発音のはたらきはそれ自体で完結してもいるが、それが「身体」の段階ではドレスで盛装した「奏者」となり、さらに「頭骨」にいたって「芸術」にまで総合される。実際には、芸術(総合)から上意下達で表現(実践)がなされる。
反対に、手足の「思考」からのフィードバックが体躯の「思想」、あるいは頭骨の「哲理」に影響することもある。まず「思考」が投企された世界をまさぐり、生活や労働、慣習といった日々、繰り返す所作が「思想」、「哲理」にいたる。人の子の成長過程が体・知連動しているのに似ている。
この「知性の身体性」を歴史からの学習として、文化や伝統といったものは暗黙裡に内蔵している。そのため、文化的知識を漂白し、除去した技術革新主義のもたらす知性には、いちじるしく身体性がない。骨格が溶けて失われるのは必然である。
退化する知性
「世間はもはや人倫の体を成していない」と愚痴る段階にまで頽廃しているのは、理非の判断を受け持つ部位の欠落からくる。「頭骨(哲理)」はとうに失い、あまつさえ「体躯(思想)」まで麻痺しつつある。「手足(思考)」のみとなり、どの株が儲かるのか、どの店が安いのか、どの人間に認められようかと常住坐臥やっているのである。
一度退化した生物が失った器官を取り戻すことは容易ではない。知的には、すでに機能の相当な部分が失われたも同然である。
ゆえに街頭演説も、デモも、新首相とやらも、画期的な技術革新も制度も――なにものを前にしても、私はもはや「是非に及ばず」としか言葉を持ち合わせていない。それは手足のみが徘徊するという気味悪い、知的に絶望的な状況にたいする適切な距離感である。

カネになる技術はないか? カネになる知識はないか? カネになる……
