直観志向

直観志向

私が信じているものは「直観」である。換言すれば、私が信じているものは「しっくり」である――高度情報化社会などというものは、どうやら高度に至ることができず貧血の「情操」の自欺でできた社会とみえる。「情操」の貧弱が情報をとめどもなく膨張させ、索莫たる心時空を膨張させつづけているのである。過情報の弊に気づき、今すぐにでも「情操」を忌憚なく発揮すべきだ。おのれという生命に倦むまえに。

直観志向とは

私が信じているものは「直観★1」である。換言すれば、私が信じているものは「しっくり」である。「しっくりいく」「しっくりする」とはどういうことか。それは実在の川上と、川下の「私」が線条に滞りなく流れた状態である。

それはどういうことか。流水腐らず戸枢蝕まずの如し、真の「活動」状態のことだ。私は「直観」にもとづく時のみ「活動している」という。ただ動くこと、行動することを「活動」とはいわない。「直観」にもとづき「しっくり」して「生きいきとしている」ことを「活動」とよぶ。

「直観」にもとづかない「(似非の)活動」は川の流れに淀みをつくる。すると水はにわかに腐る。嫌々することは運動だろうが労働だろうが不活状態であるから実相は「停滞」である。ぼうっとしているより止まっている。焦燥感に苛まれるエリートビジネスマンより、屁を放りながらサスペンスドラマをみて一日を終えるものが「生きいきとしている」ことがあるのはそういうことだ。

直観とそこからの活動が生命という現象の内容を決定的にするのである。

★1 直観――ここでは、物そのもの、事そのことのまえに独り立ち知ることという意味合い。

水平の「情報」、垂直の「情操」

以前、高度情報化社会なるものにおける「情報」とは、私にとってもはや「自衛のために知るべきこと」だと書いた(都合のいい情報)。すなわち「情報」という言葉の語源(明治9年)の語義どおり「敵告」にすぎないと。

現代のようなメディアクラシーの時代において、「直観」のないことほど恐ろしいことはない。それは精神の完全な闇をゆくことになるからだ。私は「直観」なしには一日たりとも満足に過ごすことはできないが、世人は平気の平左、スマホに顔面釘付けで綱渡りをするものばかり。まさに蛮勇の時代、といいたいところだが、それはおのれが綱渡りをしている自覚があってはじめてそうよべるのである。

「直観」は内発的「情操」でもある。価値、規範、美意識などがそこからくる。反対に「直観」がないということはそれらがないということになる。人間は通常そのような不安定な状態に堪えられない。だから無意識的にインポートする必要にかられるのだ。メディア、スマホのスクリーンに今日一日の視力の大半を費やして脳に焼き付けるのである。こうして「情操」ならぬ「」のダウンロード、もとい「情操」のデグレードが完了する。

垂線のない水平のみの位相の住人、それが「つながり(頼み)の世界」にのみ生きる「マス」とよばれるものである。

水平の「情報」、垂直の「情操」。「情操」を「情報」で解することはできない。

真のエビデンス

エビデンスは?――そう訊く、訊かれる状況はえてしてつまらぬ状況だ。私も仕事のような状況では「その根拠は? 立証は?」と訊いたり訊かれたりすることはあるが、そんなときはまず「活動」ではない。小賢しい目前の相手を言葉でさっさと処理して、できるだけすみやかにその場を去る。

誰がなんと言おうが、自分はこうだ――という狂信めいた、破潰不可能の強きもの、それが直観である。それがどこからくるのかといえば、おそらく――超越の遠点からの――全体、総合からくるのだ。根拠も立証も不用のものからくるのだ。だから私にとって「直観」は「信仰」でもある。

日和るばかりの戯言、それが直観にもとづかない水平世界の言葉のお決りである。たとえば、「鬼畜米英」などと侮言を吐いたかと思えば、「自由で開かれた国々」と居直る。「天才」だ何だと持ち上げたかと思えば、言葉尻ひとつをとって扱き下ろす。

強いていえば直観こそがエビデンスだ。おのれの息が絶えるとき、おのれを見取る流れの川面には、おそらくその直観のみが煌めくのである。

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メディアクラシーにおける集合は「情報」の集合であって「情操」ではない。そこにあるのは意味的にはヒトではなくサイボーグ(情報被制御物)である。

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