
ライフサイズ
身の丈 知る・合う・暮らす
技術の発達、社会構造の変化等により、現代人のライフサイズは拡張したが、萎縮もした。統治と被治の格差が拡大するなか、希望のあるライフサイズとは。
拡張される人間のライフサイズ
「身の丈で生きる」といえば、さも殊勝な、よいことのように感じられる。だが、真正直に、2メートルに満たない己が身の丈を基準として生きようものなら憂き目を見る――その傾向はこれからますます強くなるだろう。
たしかに、「ライフサイズ」は「身の丈」という意味だが、現代人の「ライフサイズ」は昔に比してかなり拡張されている。技術の発達、社会構造の変化等によって、人間という生物にとっての地球という環境は、かつてないほど収斂しているからだ。
知性に依った生物、人間においては、ライフサイズは「知の丈」をも意味する。たとえば、3メートルのアメーバであっても、そのライフサイズは単純な感官と認識のおよぶ範囲、小さなものだろう。一方、空海上人は室戸岬の洞窟での修行中、口に明星(金星)が飛び込んでくるのを体験したという。その認識が宇宙大であったことを示唆するものだろう。つまりライフサイズとは「感官と認識の発達度合による総合的自己認識の規模」と別言できる。
現代を生きる一般的な人間のライフサイズの拡張は図のように解釈される。
1000年前であれば、緑色で示したライフサイズで問題はなかった。しかし、現在では個人の衣・食・住・働といった暮らしの基礎的運動にすら、グローバルな関係性が分かちがたく紐付いている。たとえミニマルな生き方を選択しようと、グローバルな視野、拡張されたライフサイズを必要とする。
――彼のミニマルライフを支える物のほぼすべてはメイド・イン・チャイナだった――
拡張するも矮小になる
ライフサイズの齟齬
人間の社会的動物たるゆえんは、社会的規模の総合的自己認識をもつことにある。その過程は、感官から得た認識を自己へと合一する。ただし、そのためには対象と自己に作用・反作用の双方向性が認められなければならない。一般的に「関係がない」というのは、この作用・反作用の双方向性が認められない、あるいは失われた状態をいう。
たとえば、天気への関心と天文学への関心、これらにたいする世人の関心の度合の懸隔は、作用・反作用、影響の度合からきている。
現在の危機のひとつは、統治システムと被治の人間の関係性が技術的にかつてないほど堅緻になりつつも、一方的過ぎることだ。統治システムと被治の人間の双方向性はおおむね断絶している。総合的自己への合一が不可能、あるいはきわめて消極的な合一の上にあるライフサイズの齟齬が危機にまで高まっている。
もはやライフ(life、生活)というよりライ(lie、嘘)なのである。
統治システムへの被治の側(個人)からの作用力はほぼゼロにひとしい。個人は言わば恣意的なシステムに生殺与奪の権の大部分をあずけている。統治システムの奴隷、社会の畜生であることが教義にまでなり果せるのも無理はない。
この主権の放棄、剥奪が原因となり、ひいては無気力や鬱、過剰かつ反発的な観念が被治の側(個人)に表れる。
――イマだけカネだけジブンだけは単に世渡りの心構え。悪気はない――
結果として、社会全体的に個々人のライフサイズが萎縮、矮小化し、社会もまた矮小化する。その末路が民主主義の皮をかぶった衆愚主義、あるいは寡頭政治、悪徳政治の類だ。進取の気性というより、もはや人間の貶価を推し進める技術政治も同根である。
統治側と被治側が表裏一体となって、文明の冬が顕現する。双方向性の断絶は、統治の視座からは被治側の愚かさゆえに、被治の視座からは統治側の愚かさゆえと、目糞鼻屎の水掛け論となる。統治の横暴をゆるすのは被治側の矮小な自己認識が原因、それをいいことに統治の正統性から逸走する意思は統治側に原因がある。その本質は悪性を相互に投影しているにすぎない。
かくなる上は、被治者のライフサイズをせめて論理的にまっとうなサイズにすることである。しかし、この道はすでに断たれていると考えざるをえない。統治システムの支配構造と拝金主義の極大化、それに対する被治側の自己認識の矮小化は、もはや底が抜けてしまった。この「認識の格差」の根深さに比べれば、カネにまつわる格差など表層の現象にすぎない。
消極的だが、隠れ里を現代に作るしかないのではないか。それがこの状況に見出す、かろうじて抜け道めいたものである。平家の落人が住んだといわれるような伝承の小宇宙を真面目に検討すべき時ではないだろうか。

巨大な都市であればあるほど、人は矮小に見える。まるでライフサイズの齟齬を表しているかのようだ。都市はすべてを与え、すべてを抑圧する。