急ぐライフサイズの再構築

グローバルサイズの統治システムから直ちに完全に免れることを目指すのは極端であり、また実際的でもない。現在の文明・社会の主流的状況から漸進的な変化の過程に舵を切る、というのが自説だ。そのためにはまず、自らの「暮らし」を徹底的に見詰めなければならない。

使い勝手の向上もスペックの向上も、じつのところ感じられないスマホの新機種に飛びつく必要があるのか? 神のみぞ知る人の寿命という未知の残り時間にたいして、現在の労働で消費する時間の内容は妥協できるものか?(ちなみに私は古典落語『死神』が好きだ)数十年の債務とリスク、その引換えに得る4LDKという空間は理性の芯から必要としたものか?(ちなみに私は起きて半畳寝て一畳という言葉が好きだ)

――その生の文脈は、素直に生を語っているのか?――

ライ(lie)に傾いたライフサイズの行く先、私には二つの道しかみえない。ひとつは、個々人が真に拡張されたライフサイズを得て、統治システムとの平衡を得る道。もしくは、統治システムから受ける恩恵を自ら細らせてでも、いくらか浮揚し、支配と自欺から距離をおく道。つまり後者が現代の平家の落人、隠れ里に通ずる道である。だが、すでに見たように、極大化した統治システムにも矮小化した人々にも前者の実践は不可能だ。

ここで『OECD国際成人力調査』(国立教育政策研究所編『成人スキルの国際比較 OECD国際成人力調査(PIAAC)報告書』、明石書店、2013年)を参考にしよう。たとえば「読解力」の調査結果は、たかだか150字程度の文でも、理解できる日本人は23.7%だという。さらに驚くべきは――絶望的というべきか――それでも日本人の成績は先進国1位だったということだ。

統治と被治の格差をうめるのに、仮に被治の側から接近するとして、その知的工程は百年河清を俟つようなものだろう。統治の不間に声を上げるのはけっこうなことだ。だが、余暇のほぼすべてを三大欲求に浪費しながらそれを言うのだとしたら、説得力以前に廉恥心に欠けるのではないか。己が知的ぬかりは棚に上げ、横着もいいところだ。そして、これが歴史を見ても変わるところのない、人類普遍のありさまなのである。

己が専門知のみで生存知は満たしていると横柄に考えるのが、被治の側の世人における一般認識である。おのれの持ち場で役目は果たしている、何の文句があるのかと、自己認識の拡張も総合も歯牙にもかけないのが標準なのだ。あげく統治も被治も一丸となって低次の和を以て貴しと為す箝口令を空気中に撒布する始末。もはや「是非に及ばず」と言うよりほかない。

残る道として、知的、感情的、慣習的にいくらか親和性のあるものだけで生存を賄える共同体を模索する。その需要は、この先さらに高まるだろう。

人生100年時代(笑)――統治とコマーシャリズムの惹句にのせられ、――矮人の観場――無定見に雷同して泡沫の生を終えるか。あるいは世の空しさのなかで死生を冷徹に見極め、泡沫の生のなかにも己が意思のきらめきを観るか。

令和の世に、平家の落人然として隠れ里に入るも、そこには嘘いつわりのない等身大の暮らしという仕合せがあった――火色の夕影にあぶり出される己が暮らしの最終章。その心持は穏やかだ。

独り、素直に、おのれの心に触れ、感じる――そうしてあらわれる情景はどのようなものか。目指す隠れ里はそこにある。

想像は創造のはじまり。ライフサイズの再構築、まずはそこからだろう。年の瀬に、遠く離れて暮らす己が本心に、思い馳せてみてはいかがだろう。

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近年、アウトドアブームらしいが、そのすべてが大いなる自然への回帰行為とはいえないだろう。おのれが属する地域、小さな社会すら歯牙にもかけない矮小な自己認識のものが、宇宙・自然に回帰などできはしない。その矮小な自己認識の表れの一端として、たとえばゴミの不始末があるのである。

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