熾想前野

熾想前野 無知の値

高度情報化社会などというものは、極度に頭脳に偏頗になり、捨象が過ぎた「uso(嘘)verse」である。

無知の無知

人世のほぼすべてが「無知の知」ならぬ「無知の無知」でできている――という仮定が人生にいかに裨益するかを知っている。

人は自らの欲求という小さな穴から見える側面からしか事物を捉えない。認識可能、解釈可能な範囲で半ば独善的にしか事物を知ることができない。それはおよそ世人が目の前の異性の見目は気にするが内臓の状態には無頓着であるように。神々を人に似せ、衣服まで着せてしまうように。

無知の値

ビタミンC製剤の「ビタミンC」と天然物の「ビタミンC」は、はたして「同じビタミンC」なのか。私はその作用の体感から「同じビタミンC」だと思えないでいる。

「化学的側面」では「同じビタミンC」である。ではなぜ体感として違いがあるのか。プラシーボ効果★1だろうか。否、それはないだろう。なぜなら以前の私は「化学的に同じなのだから同じだ」と信じていたからだ。しかし体感がどうにも違うと言ってはばからない。

ならば私の無知にちがいない、化学の無知にちがいない、そう考えるのは謙虚というより知性の道理というものだろう。現に――最近の研究では……最新の学説では……――人知など葦のように絶えず揺れている。稚子の足取りのように。

おのれの無知に腰を据え、体感の主張に耳傾ける。

かつて人が思う地球は平面だった。認識可能、解釈可能な範囲で半ば独善的にしか事物を知ることができない我々は、立体的、多次元的な事物の多側面を捨象する。「ビタミンC」にもじつはより立体的、多次元的な側面があるかもしれない。未知の側面が捨象されているかもしれない。

数値やらなにやらデータを見せられても「これが事物のすべてなわけがあるまい」としか言えない。「にできたものはこれだけです」と言ってもらわないと。それが謙虚というより知性の道理というものだろう。

高度情報化社会などというものは、極度に頭脳に偏頗になり、捨象が過ぎたuso(嘘)verseである。

思うに、人が考えるほど世界は単純ではないはずだ。そのことを時に体感が、身体のほうからノックして想い熾してくれる。

★1 プラシーボ効果――心理的な効果。二重盲検の手段として用いる偽薬(placebo)。

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