心の在り処
死んだ魚のような目をした「心」が世間にあふれる、「心の危機」の時代。根本に立ち返り「心の在り処」を訊ねてみよう。聖人君子にではなく、ダンゴムシ!?に。
「心」に宿る「アート」の力
ダンゴムシは実験で、ある行動を発現させるとき、余計な行動の発現を自律的に抑制(潜在)させる隠れた活動部位
を有することを示したという。その活動部位の機能のひとつは「予想外の行動を発現させること」。なるほど、たとえば、未知の状況、すなわち危機をはらむ状況に出くわしたとき、思い切った行動で状況を打開せんとするその意気の発現。
ふだんは意識されず抑制(潜在)させているものを開放するなにかに「心」の一端をみる。それはブラックボックスの一端の可思化だろう。不確実な状況(あるいは「未来」といってもいい)にたいし、生の継続を図りつつ決定するシンコペーション(切分法、移勢法、syncopation)。アート(art)ともよびうる生の力の表現、「創発」である。
そう考えれば、昨今、およそ人の表現に大した力を感じられないのも、むべなるかな。
惰性でオフィスに通うサラリーマンが満員電車でスティーブ・ジョブズ★1の本を読んだとて、彼のような発想の転換はできないだろう。大学からの給金で心的飽和状態にあるサラリーマン作家に、鉄のカーテン★2の下で潜勢力を研ぎ澄ませたピーター・シス★3のような絵は描けないだろう。
表現に力がないのは致し方ないかと。
「安定」ときけば、とくに日本人は人生に必需のことと解釈するだろうが、度が過ぎてそれが平衡を失えば「停頓」に陥るのは力の必定だ。換言すれば「抑制」が過ぎた末のインポテンツ、「隠れた活動部位」の廃用性萎縮からの消失である。思いがけないこともなき停頓の日常からはアート性は発揮しえないと、ダンゴムシが教えてくれているのだ。現今の日本の景色に力がないのは、そういうことも因果にあるだろう。
★1 スティーブ・ジョブズ――アメリカ合衆国の起業家、実業家、工業デザイナー。
★2 鉄のカーテン――第二次大戦後のソ連・東欧圏の社会主義圏と西欧の資本主義圏との分裂を表す言葉。
★3 ピーター・シス――チェコスロバキア出身の絵本作家、イラストレーター。
「心」の在り処(1)
私には、昆虫少年といわれたほど虫に夢中になった時期がある。むろん、ダンゴムシも多くの時間を共有した身近な虫のひとつだ。本を読みながら、ダンゴムシに触れた当時のことを思い出した。
ダンゴムシを刺激して丸まると「守りに入ったな」と思い、早足で逃げだすのを見て「嫌がっているな」と思う――ダンゴムシの「心」を代弁しているようで、しかしその「心の在り処」は言わずもがな、私の「主観」にある。
バークリー★4のように「主観的知覚のみが存在だ」と言い切ってしまうのは語弊があるかもしれないが、人における「心」の定義とその体験は主観的知覚を通さずにはいないだろう。
ここですこし余談になるが、「存在は主観的知覚から生ずる」といえば、では「暗殺の銃弾を知覚していないものがその影響を受けることをどう説明するのか」という反論がありそうだ。が、その応えは現実を見てのとおりだ。
個人の主観は完全な独在として世界を象っているのではないということになる。おそらくそうだろう。終極的には世界は神の観念にすぎない
というバークリーの仮説どおり、私も全知の次元というものを所与に据えおく。
自我は主観の或る位相、或る解釈、或る因果にすぎないのであれば、人の主観的知覚対象、すなわち存在は、存在の或る位相、或る解釈、或る因果にすぎない。人が知覚していないことは無知であって無ではない。人のいう「無」とは「有」の反立としての観念にすぎない。真に無なるものは無ゆえに観念、反立としてすら対象化不可能だ。つまり人の主観的知覚から生ずる存在とは、厖大な「無」とよぶ準存在(不可知)に落ちた可知の光の一点にすぎない。
主観的知覚のみが存在だ、但しそれはあなたの主観的知覚のことではない。世界は無限といってもよい、予め可能性を秘めた準存在のスープで満たされている、全知によって。人の未知(無)が既知(存在)になる過程は発見(下位への転送)であって創造ではない。人間は創造しない。発見するだけだ
、というガウディ★5の言葉、それは私の仮説でもある。
ゆえに「無(知覚外存在)」からの影響というものがありうる。暗殺の銃弾の影響然り、未知の天体の影響然り、丑の刻参りの呪いの影響然り。
窮極的(主観の無限の遡及、あるいは無限の昇華の帰結)には、「心」はおそらくダンゴムシと私、個の有するものではないだろう。全知の次元、真の主観にそれはある、としておこう。
そも、存在論や観念論による「心」の解説は本論の任ではないので、ここまでにしておく。
★4 ジョージ・バークリー――イギリスの経験論哲学者、聖職者。
★5 アントニ・ガウディ――スペインの建築家。
「心」の在り処(2)
ダンゴムシによれば、「心」はヒトが信仰とよべるほど信頼をおく大脳なんぞに固有のものではなく、「責任を伴う実践」において、たしかにそこに現れるもののようだ。
「猫背でスマホの小さな画面にぶつくさ書いているおまえの何処に、心が在るというのか。おまえの心なぞ、不在であるぞ」
ダンゴムシは光沢のある灰色の背中を人に向け、そう言っているようだ。人生がつまらないのは株主資本主義による格差のせいだの、GHQによる押し付け憲法のせいだの言ってないで、四の五の言うまえに行ぜよ! 不満を言うのは、全身全霊、事に当たってからにせい、と。
丸くなって穴があれば入るべきは、人間の方である。
部屋の灯りに、シバンムシ★6が寄ってきた。一寸の虫にも五分の魂
とは斯様な次第であったか。一切衆生悉有仏性、南無。
★6 シバンムシ――小豆色の、シバンムシ科に属する体長1-数ミリメートルの小さな甲虫。