心とは|ダンゴムシに訊く「心の在り処」|秋影書房

心の在り処

死んだ魚のような目をした「心」が世間にあふれる、「心の危機」の時代。根本に立ち返り「心の在り処」を訊ねてみよう。聖人君子にではなく、ダンゴムシ!?に。

ダンゴムシにみる「心」

「心」というのはブラックボックスのようなものだ。つまり出力(表現されたもの)においてはその存在を確認できるものの、その全体、構造は容易に分からない。

そんな難解な「心」なるものを、小さな「ダンゴムシ」の歩みに導かれた仮説を取り上げ、少し違った視座で掘り下げてみよう。

「心」の定義

ここで拙論を書くにあたり、きっかけとなった一冊、森山徹、『ダンゴムシに心はあるのか 新しい心の科学』山と渓谷社、2023年。

ダンゴムシの実験をとおして「心」を探るというものだ。ダンゴムシからの出力をたよりにブラックボックスの中を垣間見んとする実験とその結果は興味深い。先回りして結論をいえば、心の定義の仮説として「抑制と創発を司るもの」としている。この仮説を敷衍し、人間に当てはめてみよう。

ちなみに心の定義は、今後AIにおいても問われることになるだろう。

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「心」に宿る「アート」の力

ダンゴムシは実験で、ある行動を発現させるとき、余計な行動の発現を自律的に抑制(潜在)させる隠れた活動部位を有することを示したという。その活動部位の機能のひとつは「予想外の行動を発現させること」。なるほど、たとえば、未知の状況、すなわち危機をはらむ状況に出くわしたとき、思い切った行動で状況を打開せんとするその意気の発現。

ふだんは意識されず抑制(潜在)させているものを開放するなにかに「心」の一端をみる。それはブラックボックスの一端の可化だろう。不確実な状況(あるいは「未来」といってもいい)にたいし、生の継続を図りつつ決定するシンコペーション(切分法、移勢法、syncopation)。アート(art)ともよびうる生の力の表現、「創発」である。

そう考えれば、昨今、およそ人の表現に大した力を感じられないのも、むべなるかな。

惰性でオフィスに通うサラリーマンが満員電車でスティーブ・ジョブズ★1の本を読んだとて、彼のような発想の転換はできないだろう。大学からの給金で心的飽和状態にあるサラリーマン作家に、鉄のカーテン★2の下で潜勢力を研ぎ澄ませたピーター・シス★3のような絵は描けないだろう。

表現に力がないのは致し方ないかと。

「安定」ときけば、とくに日本人は人生に必需のことと解釈するだろうが、度が過ぎてそれが平衡を失えば「停頓」に陥るのは力の必定だ。換言すれば「抑制」が過ぎた末のインポテンツ、「隠れた活動部位」の廃用性萎縮からの消失である。思いがけないこともなき停頓の日常からはアート性は発揮しえないと、ダンゴムシが教えてくれているのだ。現今の日本の景色に力がないのは、そういうことも因果にあるだろう。

★1 スティーブ・ジョブズ――アメリカ合衆国の起業家、実業家、工業デザイナー。

★2 鉄のカーテン――第二次大戦後のソ連・東欧圏の社会主義圏と西欧の資本主義圏との分裂を表す言葉。

★3 ピーター・シス――チェコスロバキア出身の絵本作家、イラストレーター。

「心」の在り処(1)

私には、昆虫少年といわれたほど虫に夢中になった時期がある。むろん、ダンゴムシも多くの時間を共有した身近な虫のひとつだ。本を読みながら、ダンゴムシに触れた当時のことを思い出した。

ダンゴムシを刺激して丸まると「守りに入ったな」と思い、早足で逃げだすのを見て「嫌がっているな」と思う――ダンゴムシの「心」を代弁しているようで、しかしその「心の在り処」は言わずもがな、私の「主観」にある。

バークリー★4のように主観的知覚のみが存在だと言い切ってしまうには懐疑が残るものの、「心」は主観的知覚が大いに関係する観念の体系に在る、というのは私の仮説でもある。

ここで、存在は主観的知覚から生ずる、といえば、では「月を知覚していない羊水の中の胎児が月の引力の影響を受けることをどう説明するのか」という反論がありそうだが、その応えは仮説に反しない。

知覚していないもの(バークリー風に言えば存在しないもの)、つまり「無」は「有」の反立としてあらわれる観念であるから、存在が生ずれば、同時に裏で無も生ずる。無は知覚されてはいないが、存在の可能性を有する準存在のようなものだろう(真になるものはゆえに対象化できず、反立としてすら存在しえない)。

ゆえに無(知覚外)からの影響というものがある。ウイルスの影響、暗殺の銃弾の影響、上述の反論然り(胎児の主観的知覚がもしであるとしたら、月の引力の影響は観察者には存在しても胎児には存在しないだろう)。つまり存在と準存在の境界線もまた主観が引いている。異なる意味での無知の知ともいえる。

そも、存在論や観念論による「心」の解説は本論の任ではないので、ここでは「心の在り処」のひとつの仮説として「それは観念の次元に」、としておこう。但し、窮極的(無限の遡及、あるいは無限の昇華の帰結)には、「心」はおそらくダンゴムシと私、固有の観念の有するものではないだろう。終極的には世界は神の観念にすぎないというバークリーの仮説どおり、全知の次元を私は否定しない。

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★4 ジョージ・バークリー――イギリスの経験論哲学者、聖職者。

「心」の在り処(2)

ダンゴムシによれば、「心」はヒトが信仰とよべるほど信頼をおく大脳なんぞに固有のものではなく、「責任を伴う実践」において、たしかにそこに現れるもののようだ。

「猫背でスマホの小さな画面にぶつくさ書いているおまえの何処に、心が在るというのか。おまえの心なぞ、不在であるぞ」
ダンゴムシは光沢のある灰色の背中を人に向け、そう言っているようだ。人生がつまらないのは株主資本主義による格差のせいだの、GHQによる押し付け憲法のせいだの言ってないで、四の五の言うまえに行ぜよ! 不満を言うのは、全身全霊、事に当たってからにせい、と。

丸くなって穴があれば入るべきは、人間の方である。

部屋の灯りに、シバンムシ★5が寄ってきた。一寸の虫にも五分の魂とは斯様な次第であったか。一切衆生悉有仏性、南無。

★5 シバンムシ――小豆色の、シバンムシ科に属する体長1-数ミリメートルの小さな甲虫。

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