アートの裏面

アートの裏面

宝塚市立文化芸術センターで開催中の「藤部恭代|インタタイダルワールド2022(4.1[金]- 4.12[火])」へ行った。自転車で往復15km弱、咲き誇る桜から桜、トレースするように走るのは季節ならでは。 事前に気になる絵画があった。現地では幸い作家の藤部恭代氏と話ができたので、今回はその会話をもとに論を展開する。

アート(?)

アート(art)という言葉にもっとも違和感を感じるのはアートに接したときだ。というのも、たとえば調子付いているAI(人工知能)は「Artificial Intelligence」のことだが、この場合の「art(ificial)」は「人工の」という意味だ。 そこには甚だ「技術」のにおいが立ち込める。

アート(art)の語源はラテン語のアルス(ars)だが、これが違和感の淵源である。アルス(ars)は技術、芸術、いずれの意味も併有しうる。語義どおり訳せば「技芸術」というような辞書にはない言葉になりかねない。

アートは往々にして「人工的」というよりむしろ「人文的」である。アートの作家はことさらその制作技術を披瀝したいわけではないだろう。それでもアートとAIは言葉において同郷だ。語源の懐の深さゆえとはいえ、なんとも違和感を覚えるものだ。

しかし、より深い洞察において、その違和感は薄れていくこととなる。アートの多面、その裏面にスポットをあてよう。

表紙になっているこの絵画がきっかけである。

カタストロフとアート

事前に気になった絵画とは『藤部恭代|FIFTH』――311東日本大震災というカタストロフに作家の心が変動し、運動となったものだと知った。

一目して日本的な観念を感じたのはそういうことだった。北部特有の藍色の空を背景に、稠密な部分は多くを語る。そこに「死」を感じるということは、すでに「生」が語られているということだ。キリスト教において「FIFTH(5)」は四大元素に加わる5番目のもの「神の息吹」を象徴するというが、聖痕スティグマタの意味もあるという。

作品を前に作家の藤部恭代氏と話す。聞けば震災にすぐさま反応して描かれたものではないという。あの時――大惨事への無力感に日本は暗澹となったが、氏も絵画表現の無力感という暗がりに落ち込んだ。

絵画・彫刻・建築・音楽・舞踊・文学等――アートは往々にしてカタストロフに沈み、迷い、ときに唾棄される。そこにはTPO(時・所・場合)の問題がある。そも価値というものはTPOという折々の地色のなかに浮上する白抜きのようなものである。独立常在のものではない。

およそ〈アート〉という運動に現時のカタストロフにたいする即時・即応・即効のレスキュー(rescue)能力はない。アートは舞踊のように動的であっても、文明、社会という巨視的な舞台において常に静的な存在、平時の価値である。

現に音楽もスポーツも文学も、歴史をみれば災害や紛争・戦争にたいする直接的なレスキューになったためしがない。それもそのはず、運動の性質として現象の陣頭指揮をとるものではないからだ。

アートが発光するのは「粛」のタームである(図a)。ちなみに「烈」のタームで発光するのは「アド(広告、advertisement)」である。

私は以前から(アートを含む)「粛」の活動の役割というものにいくつかの視座を設けてきた。そのひとつは「総括」の役割である。そこから「創作活動」ならぬ「総括活動」とよぶ。

「総括」は平時の活動だ。そこにアートの価値が立振舞えるフィールドが――存外の奥行きで――あるのではないか。そして「総括」であればこそ、遅れてくるもの、後にくるものである。「見とどけ」なくして「総括」はない。

311東日本大震災をまえに藤部氏が感じたというアートの無力感(非即時性・非即応性・非即効性)は、アートに必要不可欠な懐妊期間だったはずだ。

『藤部恭代|FIFTH

「総括美」という価値基準。

アートはもっと風狂に――実践のアート

総括とは実践の最終工程ともいえる。しかしアートは往々にしてその斯界にひきこもりがちだ。構造的に学究的アカデミックなのである。「きみにアートのなにが分かるのか」などと衒学的ペダンチックに振る舞いでもしたら、アートは実践でも総括でもなくなる。それこそ本当の無力だろう。

アートはもっと風狂であるべきだ。ここでいう「風狂」とは、修行者が下野して尚、耿々と輝くことだ。禽獣のさばる野――娑婆――で役を果たせてこそ、実践のアートではないだろうか。そのときアート真知ロゴスを伴う技術アルスとなり、語源にしっくり馴染むのである。

日本は今、そしてこれから、国難の時代となるだろう。その認識がないとしたら、それは見解の相違か、もしくは魯鈍だ。ますます難儀な時代を後にひかえ、総括するなら今をおいて他にはない。ホンモノのアートが、総括が、潜在的にはもとめられているはずである。

FIFTH』を表した藤部恭代氏に期待して、今後の作品に注目したい。

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